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比治山へ上る [街歩き]

陸軍の被服廠を観たあとは北にある小山
比治山へ行ってみることにしました。

比治山は標高70m、
東京にも愛宕山という小高い山がありますが、
こちらは26mだからその倍以上の高さになります。

雨の中だから、山登りはきついと思い、
地図をみると、路面電車が走る西側ではなく、
その反対側に、スカイウォークという施設がある。

そこで、被服廠から、北へ歩いて約15分 

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ショッピングセンターの二階から直結した

動く歩道に、エスカレーター

無料でいいのかなとおもうほどの、立派な施設だが、
人がいなくて閑散としている。

こりゃ、めっちゃ楽だけど、
エレベーターでよかったんじゃないの?

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スカイウォークを上りつめ、
右へ歩くと、

広島現代美術館があります。

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サイト=ヒロシマ と題し
広島をテーマとしたアートを集めた特別展が開催されていました。

ただ、私のような俗物には、
段ボールの塊や、傾いた棚などは、よくわからないです。

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しかし、美術館の正面の下の広場に設置されている
このヘンリー・ムーアの作品は、
不思議な力がありますねぇ。

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アーチの下から見上げると、

時空が歪んで感じます。

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美術館の周囲には彫刻が置かれた小道がありますが、
この日は人影がありませんでした。

左は船越保武作「EVE」(1986年)
右は佐藤忠良作「ポケット」(1984年)

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美術館の下にあるまんが図書館

中は人でいっぱいでした。

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比治山から観たマツダスタジアム。

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北側の崖を下ったところにある明泉寺。

山門は原爆の爆風を受けた
被ばく建物の一つに登録されていますが。
お寺の建物とアンマッチです。

比治山は、
その東側と西側で大きく明暗が分かれたと聴いています。
西側はもろに爆風を食らい、東側では比治山が壁になり、
影響が少なく済んだという話も聞いています。

 

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そんな68年目の広島をぶらぶら歩いてみました。

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広島陸軍被服支廠 [街歩き]

週末、広島へ行きました。

広島には、以前から行きたいと思っていた場所がありまして...
ただ、この日はお天気が悪く、
傘をさして、カメラを提げてのお散歩は、体力的にきつい。

しかし、めったにない機会なので決行しました。

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広島駅から広電5番に乗り、猿猴川を渡り、
皆実町六丁目で下車。

交差点から東へとテクテク進むと、

こう言っては失礼ですが、
街外れ感漂う、殺風景な交差点に着きました。

下の写真、遠くに見えるのは比治山。

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こんなところに、遺跡のような建物はあるのだろうか、
道を間違えたかな?

そう思いながら、裏通りに入ると、
住宅地の一角に、その巨大な建物は忽然と現れました。

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元広島陸軍被服支廠。

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被服廠とは、軍用の服や靴などを製造する工場のことです。

広島の被服廠は、1905年(明治38年)開設、
軍服、軍靴、マント、飯盒、小刀まで
陸軍で使用する物資を広く降り扱っていたそうです。

現存している4棟の建物は、1913年(大正2年)の竣工だから
今年が、建てられてちょうど100年目。

記念すべき年なんですが。。。 

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第二次大戦後、敷地の多くが公務員宿舎用地や学校用地に転用され、
被服廠の建物は、4棟を残し解体されてしまいました。

残った4棟のうち1棟は学生寮で使用され、
残り3棟は日通の倉庫になっていたそうですが、

現在は未使用状態になってしまっています。
要は廃墟状態。

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現在は県が所有し、
過去に再利用のアイデアがいろいろ出たものの、、
維持費、耐震補強の費用などがネックとなり、
なかなか、いい利用方法が見つからないとのことです。

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それにしても、長い直線の道路に沿って、
古くなったレンガの建物が連なっている風景は壮観です。

今のままでも、十分観光地として行けますよ。

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被爆建物

特に、原子爆弾の爆風で歪んだという窓の鉄製扉が、
そのまま残っているというのが生々しい。


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大戦から70年が経過し、
当時の貴重な建物、戦争の貴重な資料が、
住宅街の中に無造作なまま残されていることに驚きますね。

建物の中を見られないのは残念でしたが、
外観だけでも十分に見る価値があります。

是非、保存してもらいたいです。

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新発田城 [街歩き]

村上駅から各駅で35分、新発田駅で途中下車、

新発田城を観光することにしました。

新発田城は、新潟県で唯一
江戸時代の城郭が現存している城だそうです。 

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新発田駅から新発田城まで、徒歩で約25分。
雨の中を歩きました。

途中、寺町という場所を通過。
藩主の溝口氏が寺社を保護したこともあり、
立派なお寺が並んでいます。

太平山 瑞雲寺
新発田城の城主、溝口秀勝の奥方が開基したというお寺

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廣川山 真称寺
浄土真宗本願寺派で、
800年以上の歴史を持つ由緒ある寺院だそうです。

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久栄山 蓮昌寺
日蓮宗のお寺で、このお寺も700年の歴史があるそうです。

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松見山 法華寺
1598年(慶長3年)創立の日蓮宗の寺院
この寺院は、営業力に長けてそう。

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これらのお寺が、
通り沿いに一列に並んでいます。
いずれも立派なお寺です。


次は、新発田市民会館の敷地内にある
蕗谷虹児記念館。 

蕗谷虹児(ふきやこうじ)って誰よ?

おそらく、新発田市民以外はこんな感じですよね。
私も不勉強でして・・・。

蕗谷虹児は、大正から昭和にかけ、
イラストーター、デザイナー、作詞家など
多彩な才能を発揮した、今で言う売れっ子アーティスト。

♪金襴緞子の帯締めながら・・・

「花嫁人形」の作詞家、
といわれれば、あ~そうか、となるわけですが、

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実は、帰宅してから知ったのですが、

毎年、新発田で蕗谷虹児に因み「花嫁人形」合唱コンサートが開かれていて、
うちの娘がその催しに参加したことがある 
という衝撃的事実があったにもかかわらず、

何も知らずにオヤジがうろついていたようです。
新発田とは縁があったようです。

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お城に近づくにつれ、駐車場や空き地に
ここに門があった、櫓があった
という案内板が現れます。

城内のかなりの部分が、市街地として、
利用されていることが、よくわかります。

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お城に到着。

上は平成16年に復元された辰巳櫓

で、下が表門です。

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表門と道路を挟み、
堀江安兵衛の銅像が立っています。

堀部安兵衛こと堀部武庸は、赤穂浪士四十七士の一人

剣客として知られ、
もしも江戸時代に四十七士選挙があれば、
確実に神7の上位に来るであろう人気者。

新発田藩溝口家の家臣の家に生まれ、
名家の生まれだったのに、
父が浪人の身になり、

孤児になって奮闘
赤穂藩浅野家家臣 堀部金丸の養子に迎えられ

その後は、果たし合いの助太刀で、
岩本町から高田馬場まで走ったり、

忠臣蔵の好きな方には、おなじみの人物。

赤穂浪士なのに、なぜ新発田なのか。

以上の経緯があるわけですが、
新発田城は父親が追い出された藩の城で

門の前でおのれ~コノヤローという
感じで立っているように見えます。

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新発田城は入場無料。

表門を入ると、すぐ正面に塀がみえます。
あれ?あまり広くない。

ボランティアの方からは、
塀の向こうへは絶対に行かないでください
と注意されました。

なぜならば、

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塀の向こうは自衛隊。

ボランティアの方によれば、城の敷地の大半が、
自衛隊の駐屯地として使用されているとのことでした。

新発田城は、戦国自衛隊の城、
と呼ばれていますが、

確かに。

これはこれで面白いです。

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辰巳櫓は、
平成に復元した櫓で、新しくてキレイ。

ただ、歴史は感じられませんねぇ。

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こちらは、二の丸隅櫓

質屋のお蔵みたいな感じでした。

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新発田城には天守がなかったそうで、

その代わりを果たしたのが、三階櫓

こちらも平成になってから復元された建物ですが、
内部は公開していません。

仮に公開されても、
石垣に沿って自衛隊駐屯地と隔てる塀が設けられており、
三回櫓に行くためには濠と塀との間の
細い通路を伝っていかないと行けないようです。

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雨が激しくなっていたので、
駅の方へ戻ることにしました。

新発田には他に、長徳寺や足軽長屋など
観光施設がありますが、
それは次回ということにして、

駅へと続く商店街を歩きました。

土曜日のお昼だというのに、人がいません。
地方都市でよくみる風景ですが、
ここは規模が大きいですね。

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村上でも思ったのですが、

新潟にはアルビレックス新潟というサッカークラブがあり、
そのホームゲームに、多くのビジターが押しかけます。 

浦和レッズ、FC東京あたりのサポは、
結構な人数が来て、地元にお金を落として行くから、

新潟の近くの市町村も、
それに乗っかればいいと思うんですよね。

試合に合わせ、ビジターサポ向けに
うまいものを食べられるぞとか、
安く泊まれるぞとか、
もっと発信したらいいと思います。

新発田は新潟から近い。

お城はあるけど、
町に元気がないし
正直、村上よりつまらないです。

何となく、方法論を間違えているような気がします。

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村上散歩 [街歩き]

週末、新潟県の北端、村上へ行ってきました。

村上は、城下町として栄えた場所。

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古い町並みがあって、散歩によさそうと思い選択しましたが、
一週前が「村上大祭」で、この日はまさに祭りのあと

タイミングとしては最悪でした。

いずれにしても、新潟行きはサッカー観戦が目的、

ただ、新潟市内は、何回も行って観光する場所はないんですよね、
で、今回は別のところへ行ってみようと思い、

金曜の深夜、新宿を出発する高速バスに乗り、

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新潟駅へ到着したのが早朝6時半。

試合のキックオフは夕方7時ですから、
時間はたっぷり。

6時48分新潟発、羽越本線の各駅停車村上行き。

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天気予報は雨。
特に新潟県北部には大雨注意報が出ていたので
電車が止まって帰れなくなったらどうしよう、
とやや心配になりましたが、

何とかなるだろう

と、列車に乗り込みました。

早朝ということで、新潟駅からの乗客はわずか10人ほど。
途中から、村上市内の高校の生徒が乗ってきましたね。

車窓から見る新潟の空は、
厚い雲に覆われ、景色はあまり楽しめませんでした。

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時間通り、7時59分に村上駅へ到着。

村上市の知識がないので、パンフレットを貰おうと、
観光協会へ向かいましたが、時間が早すぎて開いていない。

仕方ないので、地図を見ながら
東へ、町の中心部に向かい、歩くことにしました。

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目についた断幕には、「歩いて回ってくれっしゃ」。

自信に満ちた(?)その言葉に、
散歩好きの期待感が膨らみます。

果物屋さんのテントには、
盛籠、盛詰、調整
一般庶民向けの用語ではありませんが、
何となく懐かしい 

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歩き始めて約15分、町の中心部に来ました。

数百メートルある南北の通りに沿って、
商店が並んでいます。

北から小町、大町、上町と呼ぶそうで
塔のある田村酒店さんがあるのは上町

いい雰囲気じゃないですか。

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古い昭和のアーケードがあるのは大町。
まだ、お店が開いていない。

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懐かしさを覚える風情のある建物が並んでいます。

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町の北を流れる三面川は、
サケが遡上することで有名。

江戸の時代、
村上藩は鮭に目をつけ、産業として発展させ

現代でも鮭は村上一押しの土産物です。

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人形巡りなど、
観光協会のお薦めコースを後で知りましたが、

そんなことにはお構いなく
行き当りばったりで、細い裏道などをウロウロ。

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村上では、景観の復元活動をしているそうです。

まだ、途上という感じですが、
小町通り周辺は、江戸~明治時代の雰囲気が残っています。
というか、そういう雰囲気に整備しつつあるというべきか。

美術館になっている旅籠門、茶仙茶屋さん

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井筒屋さん、いいですよね

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第四銀行の駐車場。ここのカーブもいいです。

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三の丸記念館は、明治末期の建設で、
かつて第四銀行村上支店の店舗に使われていたものだそうです。

この日は休館でした。

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となりの村上歴史文化館
藩に関する歴史資料や、生活用具、明治時代の教科書などが展示されていました。

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同じ敷地内にある重要文化財、若林家住宅。

村上藩のお役人の家を復元したものだそうです。

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正直言いまして・・・

建築に詳しくないので、
田舎でよくある建物にしか見えません。
すいません。

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三の丸からさらに東へ歩きまして

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まいづる公園へ行ってみました。

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まいづる公園には、村上藩の武家屋敷が復元展示されています。

旧 岩間家住宅

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こちらが旧 藤井家住宅 

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フラッと出かけた観光者には

雅子妃の曽曽曽祖父が村上藩の藩士だった
とか言われても

価値がよくわかりませんねぇ。

意外に質素です。

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村上は城下町ですが、
城山に天守がありません。
やはり、天守があるとインパクトがありますよね。

雨が激しくなってきたので、山登りは控えることにして、
再び、町の中心部に戻ってきました。

これも後で知りましたが、
黒塀プロジェクトという市民活動があるそうで、
コンクリートやブロックの塀を黒塀へと復元しているそうです。

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さらに、徹底したらいいですよね。

アクセスは新潟から1時間程度だし、
町の魅力を挙げれば、新潟遠征に来る、東京や浦和のサポーターを
呼び込めますよ。

滞在時間は3時間ほどでしたが
散歩するにはいい街だなと思いました。

ただし、もっと涼しい時期がいいです。

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で、サッカーファンはグルメが多いから、
村上牛を食わせましょう。

私が寄ったやま信さんは、開店が午前10時。

村上牛牛丼や焼肉定食など、
お値段も1000円前後でリーズナブルでした。

村上牛は霜降りが多く、柔らか~。

来年の新潟遠征に行かれるかたには、
村上おすすめです。

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晩翠草堂 [街歩き]

仙台街歩きシリーズ? 

最後は晩翠草堂です。

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仙台城跡から、市の中心街へと戻ってきました。

仙台は戦時中、アメリカ軍による残虐な空襲を受け
中心部は焼け野原になってしまいました。

ヨーロッパでは、焼失した街を復元する思想、文化がありますが、

日本は復興という名のもとに、
全く別の景観の街にしてしまうケースが多いです。

そんなこともあり、仙台市の中心部には
歴史的な建築物がほとんど見当たりません。

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そんな中、
近代的なビルが立ち並ぶ繁華街に
異彩を放つ木造家屋があります。

晩翠草堂。

晩翠は、仙台出身の詩人、土井晩翠のこと。

♪はるこ~ろ~ のはなのえん

あの有名な「荒城の月」の詞の作者ですね。

また、全国の校歌には、
晩翠の手による詞がたくさんあります。

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草堂とは、自分の家の謙遜した言い方。
一人称を「小生」や「それがし」と呼ぶようなものですね。

要は、晩翠さんち です。

昔、土井晩翠の「土井」は、
「つちい」と読むのだと教わりました。
でも「どい」でも正しいんですね。

本人は土井(つちい)家の長男として生まれましたが、
あまりにも、みんなが”どい””どい”いうもので、
昭和初期に、もう”どい”でもいいや、と、

「つちい」を「どい」に改称してしまったのだそうです。

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草堂は、第二次大戦後に建てられたもので、
晩翠が晩年を過ごした和室が、
そのまま保存されています。

晩翠は3人の子供、夫人、家族全員に先立たれてしまい
余生はさびしいものだったようです。

観覧無料。

訪問者が少ないのかな?
私が訪問した時は、管理人さんが油断していて、
慌てて出てきて、ラジカセの再生ボタンをプッシュ。
急に「●●記念館」ぽくなりました。 

庭を望む、廊下の窓ガラスは、
景色が少し歪む昔のままのガラスです。

これって貴重ですよね、
よく、地震で割れなかったものです。

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晩翠草堂から歩いて3分ほど 

奥州街道と、城から東へ伸びる幹線道路の交差点
「芭蕉の辻」と呼ばれる場所があります。

芭蕉といっても、松尾芭蕉とは無関係だそうです。

江戸、明治の時代は、ここが街の中心だったわけですが、
現在は、記念碑のほかには、特に見るべきものはありません。

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おまけ画像は、
そばぜんざいと牛タン

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歩きすぎて、腹が減りました。

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仙台城址 [街歩き]

伊達さんです。 

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仙台市内をてくてくウォーキング
愛宕橋から、広瀬川の上流へ向かって北上
仙台城址へ到着しました。

初めての仙台なら、ここを訪れるのは定番。

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私は、仙台は初めてではないし、
仙台城も過去に訪れたことがあるし、
ベタな観光スポットへは一回行けば十分、

とはいえ

お天気がよく、
歩いている途中、ビルの谷間から見えた雪山が気になりまして
高いところから仙台市街を眺めてみたくなりました。

その前に、仙台市博物館で休憩を兼ねお勉強。

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仙台城は仙台藩初代藩主、伊達政宗公が、
慶長年間に築城したお城。

ということは、完成は約500年前

以後、明治政府により廃藩置県が発令されるまで
伊達氏の居城となっていました。

政宗公が青葉山に築城した理由は諸説あるそうです。

いくつかの候補の中からこの地が選ばれたとのことですが、
選定にあたって家康の承認が必要だったようで、
徳川幕府が深く関与していたようです。

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国府がおかれた多賀城や国分寺の場所は、
もっと海岸に近いのに、
わざわざ青葉山を選んだ背景には

広瀬川が自然の濠になる地勢で、
仙台の街が一望でき、殿様の威厳が示せる、等

いろいろ、軍事的、政治的理由があったようです。

青葉山には、もともと国分氏の城があったそうで、

3.11を目の当たりにした後だけに、
自然災害への対策も意識にあったかもしれないな、
とか想像してしまいます。

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多くの大名が天守を建設する中、
仙台城には天守閣がなかったそうです。
流行に流されなかったんですね。

お城らしい建物といえば、
今は、大手門跡にある櫓だけ。

この地に建てられていた大手門は、
空襲で焼失してしまい、
今後、復元する予定と聴いています。

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以前は、大手門から山の上の天守台まで、
クルマで上ることが出来ましたが、
現在は震災時に石垣の一部が崩れた影響で、
通行止めになっています。

ただし、歩いて通れます。

逆に、閑散としているので、
当時の城内の雰囲気を感じたいなら
今のうちかもしれません。

博物館の裏から、急な山道を昇る行き方もありますが、
こちらは結構きついっす。

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えっちら、おっちら、もうすぐ天守台

あれ?なんで鳥居があるの?

と不思議に思うわけですが、

仙台城は、
仙台藩が戊辰戦争で官軍に敗れ、
占領されてしまったんですね。

以後は明治政府によって軍の施設が置かれ、
戦没者を祀る神社が建てられ・・・

もしそれらの施設がなければ、
大手門も空襲に遭わなかった?

事情は複雑です。

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さて、天守台のあった本丸へと上がりましょう。

戦没者の慰霊碑があるのは、
上記事情からです。

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さて、お目当ての景観は・・・ 

おおお、見えました、雪山が。。。

北西方向

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雪山は船形山でした。
山形県との県境となる山で、山形側では御所山と別の名で呼ぶそうです。
遊びで、仙台×山形のサッカーの試合で勝った方が、
相手に自分たちの山の呼び方を強制できるルールにしたら面白いかもしれませんね。

その右は泉ヶ岳、

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さらにひときわ目立っているのは仙台大観音

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南東方向は仙台の繁華街と、遠くに太平洋が・・・

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うわー!海が見える 

という感動はなく、
違う形で心が揺り動かされます。

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広瀬川 [街歩き]

♪ 広瀬川 流れる岸辺 

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陸奥国分寺から西へ。

いい天気だし、
青空と広瀬川の景色が見たいと思いました。

途中気になる看板をパチリ。
「せいわようちえん」「カニトップ」、

弱かった時代のベガルタ仙台を思い出しました。

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歩いて歩いて、

桜に惹かれて寄ってしまったお寺

昌傳庵。う~ん、きれい!

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昌傳庵は、伊達家が米沢を治めていた時代
1506年、米沢で開創された由緒あるお寺です。

伊達政宗の仙台転封に伴い、
この地に移転してきたそうです。

さて、目的地の広瀬川
愛宕橋から南東の方角を眺めました。

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愛宕橋の近くには、古墳時代の横穴の墓の跡があるんですね。

第二次大戦中は防空壕に使われ、
その後住民の物置に使われたり、
保存状態はよくないようです。

ひと気がないし、今もほったらかし、という感じです。

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この横穴墓跡がある崖の上に、
愛宕神社がありますが、
ここまでかなりの距離を歩き、山登りが辛くなってしまいました。

川原を北へと進むことにしました。

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なんか、都会のど真ん中を流れる川とは思えませんねぇ。

自然が豊か・・・ありゃ?

道がないぞ。

橋もない。


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仕方がない。

一旦引き返し、愛宕大橋を渡り、

川の東側へと回りました。

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東北学院大学のキャンパスを眺め、

てくてく歩くと

大きな松の木。

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松源寺。

1521年に創建された曹洞宗のお寺で、

この大松が有名だそうです。

さらに北へ

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霊屋橋を渡ると、瑞鳳殿の入口になります。

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伊達政宗公の霊屋。

有名な観光スポットです。

実は以前訪れたことがあります。

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今回、山登りする根性がなかったので、

以前訪れたときの写真を張っておきます。

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右上が瑞鳳殿、政宗の他にも
二代忠宗、三代綱宗の霊屋もあります。

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広瀬川は瑞鳳殿のある山をぐるりと
取り囲むような形で蛇行。

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新評定河原橋を渡りまして

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さらに北へ

ここにも伊達家に関連する施設がありました。

伊達家伯記念会
文化財の収集や遺跡の管理などを行っている団体らしいです。

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さて、青葉通りに出ました。

大橋を渡れば、青葉城です。

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陸奥国分寺 [街歩き]

クリネックススタジアム宮城から南へ歩きます。

今回の仙台街歩きの目的地の一つ、
陸奥国分寺に到着。

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国分寺は、741年(天正13年)、
聖武天皇の詔により、国家鎮護のため、
宗教機関として国ごとに設置されました。

陸奥国分寺もその一つ、
設置された場所としては最北に位置しています。

奈良時代は、大地震、飢饉、疫病、豪族の反乱など
日本はありとあらゆる国難に襲われました。

祟りや呪いが幅を効かせていた時代、
仏の力で国を鎮めようと国家的大事業になったわけです。

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陸奥国分寺は、建立された当時
東西240mにも及ぶ大伽藍や、七重塔がある
大規模な寺院だったそうです。

しかし、869年の貞観の大地震で被災、
934年には七重塔が落雷で焼失、
以後衰退し、戦国時代には、荒れ放題になっていたようです。

17世紀になり、伊達政宗が、25坊ある大寺院として再建。
政宗が朝鮮遠征した際、国分寺の薬師如来の御加護を受けたとかで、
その返礼と伝えられています。

現在の建物は其の当時のもの。

こちらが正面、薬師堂仁王門。

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八本の柱のある、八脚門。
茅葺の屋根は入母屋造

詳しくはわかりませんが、江戸時代の特徴ある建築様式だそうです。

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鐘楼。

周りの桜が美しいです。

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国分寺薬師堂

慶長11年(1607年)、
伊達政宗によって、国分寺金堂跡に再建されました。

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梵字でしょうか?

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準胝観音堂。

こちらの建物も、焼失していたものを
江戸時代に再建したものだそうです。

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ほとんどの建物が、江戸時代以降のものとはいえ、

東日本の都市で、
奈良時代を感じることができる場所は
国分寺くらいしかありません。

そういう意味では貴重な宗教施設です。

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ここが現在の国分寺。

真言宗のお寺になっています。

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奥が本堂、大塔はコンクリート造りで高さ21m。

ちょっと味気ないです。

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さて次の場所へ向かおう 


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夜行バスで仙台へ [街歩き]

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4月12日、13日の週末、夜行バスで東京と仙台を往復しました。

近年、サッカー観戦にかこつけて、
知らない街を歩くのを楽しみにしていますが、

さすがに、夜行バスは年齢的なものもあり、
身体がしんどくなってきました。

ボチボチ卒業しようかなとも思いますが、
夜行バスなら、そこそこいいシートでも
新幹線の半分の料金で移動できる。

そして、何よりも、一日を有効に使えるのが魅力。

というわけで、
24時に新宿を出発、早朝6時半に仙台駅に到着。

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とりあえず、仙台宮城野通りを東へ歩きだしましたが、
人影はほとんどなし。

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東京では散ってしまった桜が、
仙台ではこれから。

もうすぐ満開という時期でした。

きれい!

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仙台駅から東へ走る宮城野通りは、

東北楽天イーグルスの本拠地
クリネックススタジアム宮城へ一直線に続く道。

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試合の日は多くの楽天ファンで賑わうのでしょうね。

意外と通りの周辺にお寺が多いと知りました。


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そんなこんなで、お寺の建物を眺めながら、

宮城野通りを突きあたり、陸上競技場の建物・・・
より先に目についてしまったのが、
交番のサンドウィッチマンのポスター。

万引きは、絶対ゆるサンド!!

サンドウィッチマンは、今や仙台のスーパースターですかね。

伊達といえば偉大なお殿様だし、
富沢は地下鉄の終着駅
二人とも仙台ゆかりの苗字なんですね。

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さて、最初の目的地。

クリネックススタジアム宮城に到着です。

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かつては仙台宮城球場と呼ばれ、
古い話ですが、一時ロッテがホームスタジアムに使っていましたね。

監督が金やんのときは、ずいぶんと盛り上がっていました。

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現在は東北楽天イーグルスの本拠地。
今年はここまで3位。

いろいろありましたが、チームが仙台の地に根付き、
パリーグファンとしてはうれしい限りです。

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つづく


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堺プチ寺巡り [街歩き]

堺旧市街の続編です。 

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堺の町は、
紀州街道を挟んで、
それぞれ町名の末尾に東西が付きます。

前の記事の山口家住宅があるのが、錦之町東
そこから南へ、柳之町東、九間町東、神明町東、宿屋町東 
と続きます。

●●西、や●●南など、方角を町名の下につける習慣は
東京にはありませんね。
興味深いです。

で、その堺
番地が●●東となっているあたりには、
由緒あるお寺が並んでいます。
ちょっとしたお寺巡りができます。

というわけで、駆け足で観光しました。

まずは、浄得寺

聖武天皇の勅願で743年に建立されたと伝えられるお寺で、
かつては、海岸近くにあり、たいそう規模の大きなお寺だったようです。

七道という地名の由来も、
浄徳寺が七堂伽藍(金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂)を具備していたことから
その名前がついたという説があるそうです。

以上、案内版から引用。

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お次は、日蓮宗 月蔵寺

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明応4年(1495年)の開創。
1543年、堺の豪商 油屋常言の寄進を受けて、この地に建立。

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宗泉寺

山門が古く、いい感じのお寺ですが、
由来などはよくわかりません。 

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浄念寺

文明4年(1472年)の開創
コンクリのビル

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本覚山 経王寺

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十輪院

伽羅陀山(からだざん)十輪寺は、天文9年(1540年)の建立。
境内に南北朝時代の貴重な資料である塔波があるそうです。

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覚応寺

伊予の豪族、河野通有の子通元が、本願寺覚如上人に帰依し、
覚応と名乗り、正中2年(1325年)日向霧島山のふもとで開創。
その後、数代を経て堺に寺地を持ち、覚応寺となったとのこと。

ゆかりの人物は与謝野晶子、与謝野鉄幹。
境内には与謝野晶子の歌碑が建てられています。、

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さて、お次はこの古い門のあるお寺。

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本願寺堺別院

文明8年(1476年)に、蓮如上人が堺木屋町に建立した信證院に始まり、
享保13年(1728年)現在地に本堂を落成したが、70年後に火災で焼失。
現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたものだそうです。

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規模の大きな本堂で、
本堂内には、南蛮貿易の様子が描かれた襖絵があり、
貿易都市堺の繁栄が伺えますね。

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ゆかりの人物、蓮如上人、親鸞聖人
二人の銅像が本堂の前に向かい合わせで立っています。

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善長寺

勝軍山善長寺は、天文18年(1549年)の開山。

戦国武将、三好政長の息子政勝が
父の菩提寺として開山したお寺です。
細川氏、三好氏あたりは、
関東の人間にはあまりなじみがないっす。

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妙國寺

永禄5年(1562年)の建立された日蓮宗の本山です。

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織田信長は天下統一に、堺の商人の経済力を利用。
そんな関係もあり、寺の境内にある大ソテツも
一時安土城に移植されていたそうです。

徳川家康は、本能寺の変が起きた時、
ここに宿泊しており、急いで三河に逃れたとか、

歴史の舞台になった場所です。

 

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また、慶応4年(1868年)には、
開港していない堺港に無断で上陸してきたフランス兵と
警備にあたっていた土佐藩士とのいざこざから
土佐藩士側が発砲、フランス人が多数死傷するという事件が起きました。

この「堺事件」は当時、大きな国際問題となってしまい、
責任を追及された土佐藩士のうち11人が、
妙國寺境内で切腹しました。

寺の前には、彼らを弔う石柱が建てられています。

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彼らが葬られたのが、妙國寺の北側にある宝珠院

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切腹はフランス士官立会のもとに行われましたが、
11人が切腹した時点で、
フランス士官が耐えられなくなってしまったそうで、
もうやめてくれ!と中止になったとのことです。

烈士の墓は宝珠院の門の横にありました。

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まだまだ歴史的な神社仏閣がありますが、

七道駅から堺東駅まで、2時間弱ではこれが限界でした。

堺市役所の展望台へも行きたかったのですが、
次の機会にします。

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