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東横線から京王線へは新宿三丁目経由で [雑感]

前の記事 ( 東横線までの百マイル ) の続きです。

わたしは昔、横浜の桜木町まで毎日通勤していました。
京王線沿線住民なので、明大前から井の頭線を使い、
渋谷駅で東横線に乗り換えるコースをとっていました。


しかし、これがまた鬱な通勤ルートでして・・・

まず、渋谷駅の混雑。
急いでいる時は人の間をジグザグと
アメフトのランニングバック状態で歩かなければなりませんでした。
ただし、これは新宿も池袋もそうだし、
渋谷に限ったことではありません。

次に、JRを乗り越える階段がありまして、
これが狭くて鬱陶しいし、遠い。
JRの下をくぐって、東横線のホームへ上がるルートもありましたが、
さらに遠くなるので、私は上から行くタイプでした。

それから、鬱の最大の原因が、帰りの井の頭線。

井の頭線は、下北沢、明大前、久我山など、
渋谷寄りの乗り換え口、出口が多く、
始発の渋谷駅で乗客が後ろの車両に集中してしまいます。
さらに出発間際に無理やり乗り込んでくる乗客がいて
車内の混雑が半端じゃなくなる。

夜は酔っぱらいのケンカが日常茶飯事でした。
今もそうかな?

それが、この3月16日からさらに、
乗り換えのための歩く距離がのびたわけで、

新しい東横線の駅も、乗降客の数と比べ
エレベーターや通路の幅がせまいような気がして
渋滞しそうだし

想像しただけでもいやになります。



で、前の記事の続きです。

帰り道、東横線の車内にて

これから、京王線まで移動しなければならないが、
ルートとしては、渋谷駅から明大前駅まで
井の頭線を使うのが従来の行き方。

しかし、上のトラウマもあって
渋谷経由、井の頭線に乗るのはいやだなぁ~と、
JRで新宿へ行くにしてもJR渋谷駅まで遠いし・・と
気分が鬱になっていたら
私の連れも同じことを考えていたようで、

新宿三丁目まで行ってはどうか、
と提案がありました。

遠回りだけど、試してみようと私も同意。

渋谷駅からそのまま3駅乗り、
新宿三丁目で都営新宿線に乗り換えることにしました。

東横線渋谷駅では、
エスカレーターに並ぶ進まない行列を見ながら
井の頭線渋谷駅へ移動するまでに新宿三丁目に到着してしまう

と確信しました。

新宿三丁目駅では、
都営新宿線まで乗り換えのため少し歩きますが、
渋谷より距離は圧倒的に短い。
歩いている人も少ない。

都営新宿線は、電車の本数が少なく、
待ち時間が長くなる問題はありますが、
急いでいないので、さほど大きなストレスにはなりませんでした。
何よりもこのコースは座れる。

渋谷駅で乗り換えのために歩く時間を考えれば、
それでも、こちらの方が早いかもしれませんね。

他に、新宿三丁目で丸ノ内線に乗り換えて、
新宿駅から京王線の始発に乗るという選択肢もありますが
今回、こちらのルートは試しませんでした。

しかし、副都心線と丸ノ内線の乗り換えは、
アクセスが極めていいので、こちらも悪くなさそうです。

ということで、中高年にやさしいルート。

今後、

京王線から東横線へは新宿三丁目経由で行くことに決めました。


運賃はさほど変わらないし、
高くなったとしても、100円以上のストレスは確実に少なくなります。

そう考えると、、副都心線と東横線との相互直通運転は
京王線沿線にとっても、メリットがあったかもしれませんね。


なお、余談ですが・・・

副都心線と東横線の相互直通運転開始で改めて思ったことがあります。

京王線はターミナルの新宿駅が残っていてよかったなぁ!


もし、京王線の新宿駅が、新線新宿駅にシフトしていたら
と考えるとゾッとします。

東横線の渋谷駅は今、まさにそれに近い状態になっていますから。。。

東急百貨店は大丈夫かな?


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東横線までの百マイル [出来事]

昔、京王線沿線の駅から、東横線の桜木町駅まで
毎日通っていたことがあります。

経路は明大前で、井の頭線に乗り換え、
渋谷から東横線の急行の始発に乗ってあとはお任せ。。。

先日、久しぶりに東横線を利用することになり、
同じように井の頭線から東横線の
渋谷乗り換えをしました。

3月16日から、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転が始まり、
東横線の渋谷駅が地下駅になりました。

変わってから初めての乗り換え
ということで、興味深々、

井の頭線の改札を通過

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いつのように、右方向へ歩き、
JR山手線の線路を越える階段へと向かおうと思ったら、

左のハチ公方面の通路に東横線のマークがある。
こちらの方が人が少なくて歩きやすそうだ、
と方針変更。

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ハチ公前広場へ続く階段を下り、
さらに地下へモグリ、モグり、

半蔵門線のホームの上の通路へと出ました。

電光ボードを見ながら、
戸惑っている人たちもちらほら見かけました。

半蔵門線のホームを縦走する形で、
とりあえず、明治通りの方へ行けばいいと思い通路を進みます。

改札を通過し、あれ、東横線はどこだ?

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さらに地下へ降りて

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再び長い階段を降り

ぐるりと周って、

もう一回階段を降り、
やっとこ、東横線渋谷駅の新宿寄りのホームに出ました。

乗り換えコースの選択を誤ったかもしれない、
とも思いましたが、いずれにしても

こりゃあ、遠いや。

ご年配の方は、100マイルにも感じられるんじゃないかいな?

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北白川宮銅像 [タイムスリップ]

明治時代の古写真の現場へ行ってみる
タイムスリップ定点比較シリーズ。

今回は大きな施設の前の銅像の写真。 

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[ 北白川宮銅像 ]

近衛聯隊の営前にあり、明治28年近衛師団長として台湾遠征の軍中、病の為に薨去し給う

北白川宮?
21世紀の日本人には馴染みのない名前ですよね。
私もよく知らない方なので、少し勉強しておきましょう。

 北白川宮能久親王

北白川宮能久親王は、1847年(弘化4年)、
伏見宮邦家親王の第九皇子としてご誕生。

1858年(安政5年)、10歳で輪王寺を相続、
上野寛永寺の門跡に。

江戸時代までは、皇族や貴族が住職を勤める特殊な寺院があり、
その寺院、またはそこの住職を”門跡”と呼びます。

北白川宮は、生まれてすぐお寺に預けられ、
皇族ながら、子供の頃はお寺で過ごされたんですね。

1867年(明治元年)、新政府と旧幕府勢力との間の内戦が勃発。

輪王寺宮(北白川宮)は、上野の山に立てこもった彰義隊に担ぎあげられ、
戦争に巻き込まれてしまいます。
彰義隊は敗北、輪王寺宮は逃亡して仙台藩に身を寄せますが、
仙台藩が新政府軍に降伏し、京都で蟄居を命じられます。

翌年、処分を解かれ、
1870年(明治3年)、明治天皇の命により還俗し伏見宮に復帰、
同年、兵学の勉強のため、プロシア(現在のドイツ)に留学されます。

留学中の1872年(明治5年)、北白川宮を相続。
現地では、貴族の未亡人と恋に落ち、
結婚しようとしますが、明治政府が難色を示したため、
帰国直前の1876年(明治9年)、自ら現地のマスコミに公表、
実力行使に出て大騒ぎとなります。

1877(明治10年)年に帰国し、婚約は岩倉具視らに説得され破棄。
以後は軍人として、陸軍少将、陸軍中将を経て、
近衛師団長となり、台湾遠征中の1895年(明治28年)10月にご崩御遊ばされた。。。

数奇でダイナミックな人生を歩まれた方で、
大河ドラマでも作れば、
面白い内容になると思うのですが、

隣国への遠慮からでしょうか?

学校で習う歴史からは、
抹殺されたに等しい状態になっていますね。

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そんな北白川宮能久親王の銅像の現在置かれている場所は、

東京都千代田区、北の丸公園内、
国立近代美術工芸館の庭です。

木陰で、ひっそりと馬にのった姿のまま。

銅像は、新海竹次郎によって製作されたもので、
陸軍砲兵工廠で鋳造され、昭和60年に一部修復されているそうです。


ちなみに国立近代美術工芸館も、
ゴシック風の赤レンガ造りの歴史的建造物。

明治43年(1910年)に完成、
当時は近衛師団司令部でした。

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さて、古写真の銅像の場所は平地ですが、

現在は土手の上です。

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古写真が撮影された場所は、ここではなさそうです。

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案内版によれば、

銅像は明治36年1月、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二連隊の正門前に建立されたが、
昭和38年に北の丸公園が整備された際、当時より60メートル西に移動した

とのこと。

古地図で、近衛連隊の正門があった場所を確認すると、
現在は北の丸公園の入り口、 

ここは、首都高速道路の代官町の料金所があり、
交通量も多い。

竹橋から西に緩い坂を上がり、
S字カーブを曲がったところ、

都心を走るドライバーなら、
誰もが通ったことあります。

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では、写真を比較してみましょう。

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おそらく、この辺りで撮影していると思います。

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ロシアとの戦争に勝利し、軍人が鼻高々で歩いていた日本と、

第二次大戦に敗れ、60年以上平和が続いている日本


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2013年、春の竹橋は、

外人さんが、桜を眺めながらママチャリでサイクリング。

この平和で美しい日本が続いてほしいです。

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桜 2013 [自然]

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(3月26日 九段牛が淵にて iPhone5で撮影) 

毎年この時期、東京の桜の画像をアップしています。 

しかし、残念ながら、
今年は満開の時期に桜がある場所に
ほとんどいなかったんです。。。

したがって、あまり桜を満喫していませんが、

それでも、いくつか写真に収めたものがあるので、
貼っておきましょう。

ただ、写真を貼るだけでは何となくさびしい。

そこで、名前に「さくら」がつく有名人を思い出しながら
つぶやくことにしました。

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(3月5日 東京 永代橋 )


農機に乗って、「早苗だべさ」
ふりかけかけて「あなた、知床しぶき」

可愛かったなあ。
個人的には3人娘の中で、一番好きでした。

******************

「くるみ」のPVは泣きました。

”希望の数だけ失望は増える
それでも明日に胸はふるえる
どんなことが起こるんだろう?」

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(3月5日 東京 永代橋)

ルーチョンキ!

昨年、故人になってしまいましたね。


******************

ドラマ「ショムニ」の秘書室勤務の魔性の女と、
「高校教師」のヒロイン

実は、どっちがどっちなのかよくわかりません。

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(3月26日 皇居平川門)

中学生の時だったかなぁ
相手役の吉沢京子は処女ではない!
と言い張っている同級生に、
まじで切れている奴がいた。

ピアノの鍵盤にのった近藤正臣が、
足で猫ふんじゃったを演奏するシーンは
インパクトがありました。

*****************

♪三菱地所を見に行こう

♪三菱地所を見に行こう

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(3月26日 皇居平川門)

ウルトラQのテーマソングって、
今聞くと、「トワイライト・ゾーン」と似ていますね。

フジ・アキコ隊員は、科学特捜隊の紅一点でしたね。

******************

今でこそ、「ものまね」タレントが
テレビに大挙登場するようになりましたが、
寄席では色物と呼ばれ、
メインにはなれませんでした。

当時は、「声帯模写」と読んでいましたね。

田中角栄のものまねは、
ダミ声で、「んまあ その~」
と誰もができますが、

おそらく、この人が元祖じゃないかしら? 

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(3月26日 日本銀行)

「エンタの神様」が放送されていたころはよく観た。
最近はテレビで全然見かけないですね。

スケ番キャラで売っていたけれど、
ネタはわざとらしくて、あまり好きではありませんでした。
正直、ガッカリだったよ!

******************

♪ お・・じ・・さん! 

恋する~ 東京娘!
懐かしいなぁ。

同じ苗字で

♪お~や~ま~ゆう~えんち~

と鼻でふにふにする
コメディアンもいましたね。 

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(3月26日 日本橋さくら通り)

♪ 俺がいたんじゃお嫁にゃいけぬ
♪ わかっちゃいるんだ 妹よ

渥美清さんが亡くなったのは1996年、
その16年後の柴又の景色には
東京スカイツリーが増えていますね。

******************

名前に桜が入る有名人といえば、
私の娘の世代では、
「嵐」の翔君あたりがまず出てくるのかな?

ヒーローならば、
湘北高校 1年7組、身長189.2cm、体重83kg
誕生日 4月1日、背番号10


誰か大事な人を忘れているような気もしますが、

まあ、こんなもんでしょう。(^^)

わかりました?

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(3月26日 日本橋)


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堺プチ寺巡り [街歩き]

堺旧市街の続編です。 

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堺の町は、
紀州街道を挟んで、
それぞれ町名の末尾に東西が付きます。

前の記事の山口家住宅があるのが、錦之町東
そこから南へ、柳之町東、九間町東、神明町東、宿屋町東 
と続きます。

●●西、や●●南など、方角を町名の下につける習慣は
東京にはありませんね。
興味深いです。

で、その堺
番地が●●東となっているあたりには、
由緒あるお寺が並んでいます。
ちょっとしたお寺巡りができます。

というわけで、駆け足で観光しました。

まずは、浄得寺

聖武天皇の勅願で743年に建立されたと伝えられるお寺で、
かつては、海岸近くにあり、たいそう規模の大きなお寺だったようです。

七道という地名の由来も、
浄徳寺が七堂伽藍(金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂)を具備していたことから
その名前がついたという説があるそうです。

以上、案内版から引用。

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お次は、日蓮宗 月蔵寺

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明応4年(1495年)の開創。
1543年、堺の豪商 油屋常言の寄進を受けて、この地に建立。

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宗泉寺

山門が古く、いい感じのお寺ですが、
由来などはよくわかりません。 

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浄念寺

文明4年(1472年)の開創
コンクリのビル

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本覚山 経王寺

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十輪院

伽羅陀山(からだざん)十輪寺は、天文9年(1540年)の建立。
境内に南北朝時代の貴重な資料である塔波があるそうです。

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覚応寺

伊予の豪族、河野通有の子通元が、本願寺覚如上人に帰依し、
覚応と名乗り、正中2年(1325年)日向霧島山のふもとで開創。
その後、数代を経て堺に寺地を持ち、覚応寺となったとのこと。

ゆかりの人物は与謝野晶子、与謝野鉄幹。
境内には与謝野晶子の歌碑が建てられています。、

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さて、お次はこの古い門のあるお寺。

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本願寺堺別院

文明8年(1476年)に、蓮如上人が堺木屋町に建立した信證院に始まり、
享保13年(1728年)現在地に本堂を落成したが、70年後に火災で焼失。
現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたものだそうです。

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規模の大きな本堂で、
本堂内には、南蛮貿易の様子が描かれた襖絵があり、
貿易都市堺の繁栄が伺えますね。

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ゆかりの人物、蓮如上人、親鸞聖人
二人の銅像が本堂の前に向かい合わせで立っています。

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善長寺

勝軍山善長寺は、天文18年(1549年)の開山。

戦国武将、三好政長の息子政勝が
父の菩提寺として開山したお寺です。
細川氏、三好氏あたりは、
関東の人間にはあまりなじみがないっす。

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妙國寺

永禄5年(1562年)の建立された日蓮宗の本山です。

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織田信長は天下統一に、堺の商人の経済力を利用。
そんな関係もあり、寺の境内にある大ソテツも
一時安土城に移植されていたそうです。

徳川家康は、本能寺の変が起きた時、
ここに宿泊しており、急いで三河に逃れたとか、

歴史の舞台になった場所です。

 

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また、慶応4年(1868年)には、
開港していない堺港に無断で上陸してきたフランス兵と
警備にあたっていた土佐藩士とのいざこざから
土佐藩士側が発砲、フランス人が多数死傷するという事件が起きました。

この「堺事件」は当時、大きな国際問題となってしまい、
責任を追及された土佐藩士のうち11人が、
妙國寺境内で切腹しました。

寺の前には、彼らを弔う石柱が建てられています。

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彼らが葬られたのが、妙國寺の北側にある宝珠院

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切腹はフランス士官立会のもとに行われましたが、
11人が切腹した時点で、
フランス士官が耐えられなくなってしまったそうで、
もうやめてくれ!と中止になったとのことです。

烈士の墓は宝珠院の門の横にありました。

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まだまだ歴史的な神社仏閣がありますが、

七道駅から堺東駅まで、2時間弱ではこれが限界でした。

堺市役所の展望台へも行きたかったのですが、
次の機会にします。

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堺旧市街 [街歩き]

3月の週末、
大阪長居スタジアムへサッカー観戦に行くことになりまして、

とはいえ、大名旅行が出来る身分ではないので、
安い航空チケットを購入、

その到着地が関西空港でした。 

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飛行機が着いたのが午前11時すぎ。

長居スタジアムでの試合のキックオフは15時、

そうなると、14時すぎにスタジアムへ入ればいい。

その間、何とか時間を有効に過ごしたい、
とはいえ、時間が限られている。

そこで、関西空港から大阪長居へ途中にある町、堺。
その堺の旧市街を歩いてみることにしました。

堺へは南海電鉄のラピート号で行くことにし、チケットを購入。

話のタネに乗って見ることにしましたが、
結局、値段の安い航空チケットをとった意味が、
あまりなくなってしまいました。(^^;

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ラピート、快適じゃないですか。
でも、ガラガラ。

関西空港も閑散としていたし、
海を渡ったりんくうタウンにも高層ビルがあるけど、駅に人影がない。

営業大丈夫なんですか?
人ごとながら心配になります。

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さて、ラピートの車窓を眺めながら

おお、ここが毛布で有名な泉大津かぁ、

岸和田かい。岸和田といえば、清原番長の故郷、カーネーションは面白かったぞ。

景色は総武線の車窓に似てるかな

など、

いろいろ余計なことを考えながら、30分ほどで、堺駅で下車。
ここで各駅停車に乗り換え、一駅先の七道駅まで行きました。

ちなみに、関西の方は常識でしょうが、
このブログに迷い込んだ関東の方のためにご報告しておきますと、

七道の読みは「しちどう」です。

将来、堺へ行くことになって
間違っても「ななみち」と読んで恥をおかきにならないよう注意してください。

実際に、関西空港駅で、訂正されました。。。。

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七道駅の改札を出たのが、12時15分。

時間があまりありません。

とりあえず、現在地から
堺東駅まで、東南の方角へ斜めに散歩することにしました。

東へ少し歩き、
目に飛び込んできたのは、昭和の町並み

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この辺り、堺市の北旅籠町西地区は、
第二次世界大戦時の戦災に遭わず、
古い街並みが残ったのだそうです。

それだけに、古いもの、懐かしいものが、
多く残っているようです。

駅に近い宗宅寺、
300年以上の歴史のあるお寺で、

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写真の扉の中には、行基菩薩建立地蔵尊が収められているそうです。

古い碑など、歴史的人物、事件ゆかりのあるものが、
街中にゴロゴロしています。

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しかし、堺市の歴史を勉強したことのない
ただのおのぼりさんにつき、
価値がよくわからない。

とりあえず、観光案内に掲載されていたスポットを目指し
ウロウロ歩き回ることにしました。

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こちらは薫主堂といって、明治20年(1887年)創業の老舗の線香屋さん。

今でも秘伝の調合を守って手作りで線香を作っているそうです。

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漆喰の壁に刻まれた小槌のマークが気になりました。

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お次は鉄砲。

16世紀、種子島に伝わった鉄砲が、堺に持ち込まれ
堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

鉄砲鍛冶が多く暮らし、
今でいえば軍需産業で繁栄した町

下の写真は、鉄砲鍛冶屋敷(井上家住宅)です。

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こういう建物は価値がわからないと、
ただの木造の古家にしかみえませんね。

しかし、
日本の町家建築として最古の部類に属し、
鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を唯一残す
貴重な建物だそうです。
当然のことながら、市の指定有形文化財。

屋根は切妻造、平入りの建物からなる屋敷は、
江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。(堺市ホームページより)

とのことですが、現在も住居として使用しているため、
家の中は見学できません。
その代わり、向かいに小さな歴史館のような施設があります。

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堺の町は、大坂夏の陣で豊臣方が放った火で、
一度焼け野原になりました。

江戸初期に復興した際に、碁盤の目に区画整理ししたそうで、
現在でも、そのときの道路付きがそのまま残っています。

でも、道が狭い。
江戸時代の人は小柄だったと聴きますが、

そもそも、陸上を大量に物を運ぶという発想は乏しく、
水運中心で、幅の広い道はあまり必要を感じなかったんでしょうね。


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さて、ジグザグに歩くうち、
紀州街道に出ました。

東京の人間が、街道と聞いてなじみがあるのは、
日光街道や甲州街道です。

紀州街道の知識はゼロに等しいです。

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しかし、古い由緒ある建物を見るに、
ここが、かつて賑やかな宿場だったことを
想起させられます。

当時の堺の町家の特徴なのか、

古い町屋には、決まって採光のための
漆喰の格子の窓が見られます。

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(御用鉄砲鍛冶 榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡)

この窓のデザインが気になり、捜してしまいました。

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南北に走る、紀州街道には
現在チンチン電車が走っています。

阪堺電気軌道ですね。

乗車したかったのですが、時間がなくて、断念。

写真だけパチリ。
もっと、ゆっくり眺めていたかったな。

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さらに、東南へ歩き

山口家住宅=堺市立町屋歴史館へ寄ってみました。

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現存する江戸時代の町家。

主屋が建てられたのは慶長20年(1615年)、ということなので、
400年も昔。

案内の方のご説明では、
大坂夏の陣で市街地が全焼した直後に建てられたそうで、

土がむき出し状態の土間は、当時のままなのだそうです。

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江戸時代、山口家は近隣の農村の庄屋で、
奉行所との町方、村方とのつなぎ役も担っていたそうです。

当時使用された札などが展示されていました。

枯山水の庭など、
当時の堺の資産家の暮らしぶりがうかがえます。
でも、400年の間には、いろいろな事件があったんだろうなぁ。

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奥座敷にはお雛様さまが、飾られていました。

ちょっと寂しそう。

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さて、先を急がねば。。。

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皇居東御苑 [街歩き]

東京都心。大手町に隣接する、

江戸城の大手門

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江戸城の本丸、二の丸、三の丸があった場所は、
現在、皇居東御苑と呼ばれています。

大手門は、三の丸の玄関。

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ところで、このブログへ迷い込んでしまった、
東京生まれ東京育ちの方に質問です。

あなたは皇居東御苑へ行ったことがありますか?

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ちなみに、私、東京生まれ東京育ちですが、
ここへ来るのは今回が初めて。

武道館のある北の丸公園へは行ったことがあります。

幼稚園の遠足で、新宿御苑へは行きました。
小学校の校外学習で、皇居へは行った記憶がない。

皇居の門はいつも警備の警察官が立っていて入りづらい

入れるのかもしれないが、手続きが面倒くさそう
そもそも入れるの?

そう思って、行ったことがない。

こういう人、多くありません?

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(三の丸 クワ科 ホソバイヌビワ)

確かに、
皇居に不届き者が訪れ、落書きされたり、
貴重な植物を傷づけられては困ります。

敢えて、マスコミで紹介せず、
認知度を下げているのかもしれません。

公開日、公開時間が決まっていますが、
皇居東御苑は無料公開されていて、誰でも簡単に入園できます。

ただし、閉園時に中に人が残らないよう、
入園する門で札を渡され、退園するときににそれを返すシステムになっています。

意外に知られていないように感じます。

では、どういうところなのか。

ほとんど通過しただけなので、
江戸城観光目線でさわりだけ。

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先ほど入場した大手門が三の丸。

このあたりが、三の丸から二の丸へつながるところ。
ここに同心番所がありました。

登城する大名の供に不審者がいないか
見張っていたと伝えられています。
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昔は三の丸と二の丸の間に濠がありましたが、
現在は埋められています。

広くなった場所。
ここは、二の丸と本丸につながる要所で
三之門が設けられていました。

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ここの警備にあたっていたのが鉄砲百人組。

この「百人番所」には警備のため
昼夜交代で常に100人が詰めていたそうです。
鉄砲百人組には、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組と
4組あったそうで、それぞれの違い、どんなファッションだったのか
興味があります。

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番所はもう一つ、大番所が残っています。

さて、北へ歩くと、二の丸
ここには、雑木林が広がっています。

えーーー、ここ東京のど真ん中~?

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ちょうど、ソシンロウバイが満開

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二の丸から本丸へ通じる潮見坂。

江戸時代には、大名屋敷や民家の屋根瓦、八重洲の入江
そういうものが見えていたんでしょうね。

現在は、読売新聞社、三井物産など、
日本を代表するの大企業が入る高層ビル群に姿を変えています。

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本丸へと入りました。

ここが天守台。

明暦の大火で焼失して以来、
再建されることはありませんでした。

歴史的な遺跡の前に立っている実感がありますね。
一度、来てみる価値ありますぜ

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江戸城、2013年の空

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天守台から本丸を見降ろしました。

右奥に大奥、有名な松の廊下跡があります。
結構、広い

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天守台から江戸の北を望む。

木が茂り、眺めはよくないです。
武道館は屋根だけが見えます。

おそらく、江戸時代、
本郷台地の上の神社仏閣が眺められたのではないか
と思います。

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天守台の横、江戸城本丸にやや場違いな感じがする
オリエンタルな建物があります。

香淳皇后の還暦を記念して建てられた桃華楽堂という音楽堂だそうです。
八角形のしゃれた造りの建物です。

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次回はもう少し、時間をかけて散歩してみようと思いました。

その価値がありますね。

札の発券所は北詰橋門、平川門、大手門の三か所で、
どの門から入場して、どの門で退場してもOKです。

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皇居周辺は、土地の起伏があり、

美しい景色の場所が多いです。

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江戸城は意外と
東京人があまり訪れたことのない場所になっています。

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皇居周辺 [タイムスリップ]

1912年(明治45年)に発行された
「東京名勝図絵」という写真集の撮影場所を訪ねる、
タイムスリップ定点比較シリーズ

前回は、変化が激しい日比谷を記事にしましたが、
日比谷交差点から歩いて10分ほど
明治の景色がそのまま保存されている場所があります。

そう、皇居です。

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以前も記事にした桜田濠は、
皇居の絶景スポットの一つ。

明治時代、濠の向こうには陸軍の参謀本部が見えましたが、
現在は国会議事堂に変わっています。

そのまま顔を右に向けると、
桜田門が見えます。

幕末、この付近で井伊直弼が暗殺されました。
「桜田門外の変」からこの門の名前を
記憶している人が多いのではないでしょうか。

平成25年2月現在、桜田門は修復中でした。

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桜田門をくぐり、
東へ歩き、
内堀通りを渡ると、
楠木正成の銅像があります。

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鎌倉時代末期、足利尊氏とともに活躍した武士。
尊氏と袂を分かち、南朝のために闘い
最後は尊氏に敗れ自害したと伝えられています。

近年は、歴史的人物の再評価が行われていますが
明治以降、大楠公と呼ばれ、
長く忠臣として崇められている人物です。

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背景が大分変わっていますが、
銅像は昔のまま。

さて、次はここです。

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そう、二重橋ですね。

現在は濠の手前に玉砂利が敷き詰められ、
クルマが走行できないようになっていますが、

明治時代は馬車が通行できる道があったようです。

人力車や馬車が走った道は
現在、たくさんの外国人観光客が歩いています。

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北へ向かってみしょう。

坂下門。

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 二重橋の北、三日月堀の北端に在り
 古は西丸山之御門と云いしを 後今の名に改む
 宮中の御門にして、内閣、宮内省等此内にあるを以て
 日日大官が出入するもの多し

宮内庁は現在も同じ場所にあります。
庶民には一番縁がない官庁です。

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江戸城は1657年、明暦の大火で天守が焼失しています。

以後、現在まで天守閣は再建されず、
復元しようという市民活動があるそうですが、
再建にはいたらず、櫓が3棟残存しているだけです。

上の二重橋の写真にも写っていた伏見櫓に
富士見櫓

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そして、坂下門と大手門の間にあるのが
三つ目の桜田巽櫓です。

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木々の茂り具合が違いますが、
ここは江戸時代の人間が現代にタイムスリップしてきても
どこだか分かりそうです。

石垣が白くなっているのは
ペンキが流れてしまったんでしょうかね。
ちょっとカッコ悪いな。

江戸36城門というそうですが、
その半数以上が原型をとどめていません。

ここは、大企業が隣接する場所にある大手門

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この門から、日々江戸城で消費される物品が運び込まれたのでしょうね。

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普段、私たちは江戸城を
現代という立ち位置から眺めています。

逆に江戸時代からいきなり
2013年の現代にタイムスリップする感覚を味わってみたい。

そういう方は、
一度大手門を訪れてみるといいですよ。

門をくぐり、振り向いてみてください。

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