知立へ行く [街歩き]
愛知県、知立駅です。
目的は豊田スタジアムでのサッカー観戦。
いつもは名古屋駅を起点に移動するのですが、
今年は趣向を変え、知立で一泊
市内を観光することにしました。
試合観戦の翌朝、東京へ引き返す前に
市内をお散歩。
知立は古くから交通の要衝として栄えた場所。
江戸時代の表記は「池鯉鮒」
馬市で有名な場所でした。
その面影を求めて、まずやってきたのが宿場の東
東海道の松並木です。
その馬市を記念した石碑
あと、近代の農業用水の先駆けとなった明治用水の記念碑もあります。
明治用水は、社会科の教科書に載ってたな。
関係ないけど、火野正平さんの旅番組でもここの松並木を紹介していました。
Uターンして東海道を西へぶらぶらと歩きます。
称念寺は東本願寺 真宗のお寺
本陣跡
参勤交代で移動する大名御一行様がここで休泊していたのでしょう。
建物だけで300坪あったそうですが、現在は住宅密集地区
ここを目指して地図を見ながら目指しましたがすぐに見つかりませんでした。
宿場の管理・事務部門の役割をしていた問屋場のあと
マンションが建ってます。
かつて知立城があった場所
桶狭間の合戦後に織田軍に攻められて落城
その後将軍上洛用の宿泊場所など利用されていたそうですが、
元禄地震で倒壊してしまったそうです。
了運寺
1200年の歴史がある知多神社
お年寄りが朝の体操で大勢集まっていました。
正直、知立駅周辺にはインパクトのある観光施設はないです。
お土産も藤田屋のあん巻きくらいしか思い浮かばない。
ホテルも少ないし、観光客が立ち寄りづらい町ですね。
でも、ところどころに街道の歴史を感じさせる
おもしろそうな地点があります。
なんかもったいない。
天童 鶴舞公園 [街歩き]
13時発のバスで寒河江駅から天童へ移動しました。
もしかして
12時59分寒河江着の左沢線と
13時ちょうど出発のバスは、
待ち合わせて発車するのではないか
バスの運転手に注目していましたが、
ホームに電車が入ったのを横目に
あっさり、バスロータリーから出発してしまいました(笑)
ああ、無情!
天童までバスで約30分、料金は大人200円です。
ちなみに、JRですと、乗り換えがスムーズにいって約40分
500円かかります。
バスは遠くに雪の月山を見ながら、
寒河江川を渡り、果物畑を抜け、ゆぴあ という温浴施設に寄り道し
ほどなく、天童市内へと入りました。
私は天童駅の近くまでは行かず
鶴舞公園の西側、山の下
「寒河江街道」という停車場で降車しました。
ここから、一気に山を登ろうという計画ですが、
本日4回目の山登り
正直、しんどかったです。
4月25日、26日、天童は桜まつり
私のお目当は
鶴舞公園の山頂のイベント広場で開催される
人間将棋
有名なイベントですが、いつ開催されるのかまで認知していません。
今年、東京では京王線に天童桜まつりのつり広告が出まして
私はそれを観て、この日の人間将棋イベントを知りました。
あのポスター、モンテディオ山形との試合に遠征する
FC東京サポーター狙いだったのでしょうかね?
だとしたら、広告効果ありましたぜ。
私が広場へ到着したのが、午後1時40分ごろ
ちょうど北部太鼓のパフォーマンスの最中でした。
広場の観覧席を見ると、強い日差しの中、
すでに、大勢の市民が詰めかけていました。
青赤のレプリカユニフォームを着た人たちもちらほら見かけました。
さて、煙とともに
黄泉の国から甦った?織田信長、登場
将棋の駒の入陣
みなさん地元の高校生で
一人ひとり、飛車 ●●さん、桂馬 ●●さんと
名前を紹介されていました。
え、おまえ銀将、なんでおれは歩なの? とか
人間将棋になる前の、人間模様があるんでしょうかねぇ?
誰が何やるか、どうやって決めるのでしょうか?
じゃんけんかな?
どうでもいいことですが・・・
しばし演武があって、
この日対戦する 上田初美女流二段と、藤田綾女流初段が
武将のコスチュームで入陣
それぞれがお城に上り、将棋の駒たちに指図
大盤解説は木村八段、戸部六段
ゲストに将棋通芸能人のつるの剛士さん
結果は上田女流二段の勝利でしたが、
これ、楽しいです。
本番の対局では、無言で時間が経過していきますが、
人間将棋では、二人が腹の内を口にしながら
掛け合い漫才のように進行していきます。
「おぬし、とらぬのか」
「とらん!」
「逃げてもよいぞ」
「悩んでおる」
大盤解説も
「この展開では桂馬の彼はしばらく動けませんね」
「今、ドキリとしてるんじゃないですかぁ?」
みたいな。
大爆笑でした。
しだれ桜は、十分お花見できる状態でした。
さて、
最終目的地は NDソフトスタジアム山形。
一気に山を下り、 GO!
⇒ モンテディオ山形 vs FC東京
寒河江 [街歩き]
10時28分 羽前高松発 山形行きに乗りまして
10時34分 定刻通りに寒河江に到着しました。
そのまま列車に乗って天童まで行く場合、
北山形で奥羽本線山形線に乗り換えることになりますが、
左沢線の列車が北山形へ到着するのが10時57分
接続する山形線の時刻が11時33分
駅で36分も待たなければなりません。
ならば、寒河江から天童までバスに乗ってはどうか
目的地の天童鶴舞公園の下を通過するし
運賃だって200円近く安くなる
しかし、バスは一日に6本しかなくて、
すでに10時20分に出発してしまった。
次は13時です。
あと2時間半。。。
当初は、次の左沢線山形行きで羽前高松から移動する予定でした。
しかし、この場合、寒河江13時発のバスにはたぶん乗り換えられない
なぜなら列車は12時59分に寒河江に到着するから
瞬間移動でもしない限り間に合わない。
JRも天童市も、バスと電車で移動する旅行者のことなんか
これっぽっちも考えてないんですよ。
というわけで、一本前の列車に乗り、寒河江での下車を選択
バスの発車までの時間、
寒河江市内を散策することにしました。
予習なし、かつノープランですが、
何か面白いもの、旨いものがあるかもしれません。
駅前の神輿会館は、ガラス張りの新しい建物でした。
男の子と女の子の「なかよし」像は、何か特別な意味でもあるのかな?
十日市場 大日堂 300年以上前からあるお堂ですが、
どこかさびしい感じ
地方都市散策の楽しみの一つに、
古い建物や街並みを観て歩き、
タイムスリップ感を味わういうのがあります。
しかし、残念ながら寒河江はそういう場所が少ないですね。
下の写真は、かつては人通りが多く、にぎやかだったであろうと思われる
駅から東へ伸びる商店街です。
昭和40年代頃の香りが残っています。
その代表が、この映画館だった建物
映画はテレビが普及するまでは庶民最大の娯楽でしたからねぇ
かんえい、寒河江だから寒映
うまく観光施設か何かにして残してほしいですね。
いまや、昭和時代の記憶を残す貴重な建物でしょう。
商店街とクロスする通りには老舗の料理店が並んでいます。
細小路といって、江戸時代には17もの武家屋敷があったそうで、
ここが町の中心だったんですね。
寒河江は飛騨高山などと同じく
江戸幕府の天領で、陣屋がおかれていました。
その割には、高山のように、古い建物や町並みが見られません。
寺社もたくさんありますが、本堂の建物は多くが新築です。
浄土宗本願寺(左)と真宗大谷派乗円寺(右)
理由はこの寒河江という町の位置と関係があるようですね。
寒河江は、最上川、寒河江川、に挟まれた平地で
過去、この二つの大きな川が氾濫し
何度も大きな水害に見舞われています。
記録では、1644年から明治に至るまで約200年間で、洪水が109回
治水のため、70回も堤防工事が行われたとのことです。
昭和51年にも大きな水害が発生、
古い木造家屋が残っていないのは仕方がないです。
熊野秋葉両神社(左)と正覚寺本堂(右)
正覚寺(しょうがくじ)
最上義光が寒河江氏を滅ぼしたあとに
創建された最上氏ゆかりの浄土宗のお寺です。
前の記事の慈恩寺もそうですが、
寒河江周辺には仏像が多く残っていますね。
たびたび発生する洪水による被害
裏を返せば農業に適した肥沃な土地を巡り
くりかえし戦場になった。
いろいろと神仏にすがりたいことが多かったのでしょう。
1000年近い歴史を持つ
寒河江八幡宮へ来ました
また、山登りかよ
寒河江八幡宮は、大江氏、寒河江市、最上氏
時の領主、武家の崇敬をうけ
現在でも堂々たる威容を誇っています。
秋には流鏑馬奉納があるので、
そういう時期に来ればよかったのでしょうが、
桜の名所ということだし、
今の時期、お花見をしていきましょう。
ちょうど、桜の散りどきで
桜吹雪の中、参拝させていただきました。
玉こんにゃく、旨い
山を下りて、もう少し町の中をうろうろ
中心街にある商業ビル、SAGAEフローラをのぞいてみました。
どこの地方都市にも見られる風景。
車社会になってしまい、
かつて町の中心だった場所にある商業施設は、どこも閑古鳥がないています。
土曜のお昼なのに人影が少ない
駐車場がないのかな?
美術館もあるけど、遠くからわざわざ見に来るほどの魅力は感じませんでした。
SAGAEフローラの近く、昼食で入った皿谷食堂さん。
外は人通りが少ないのですが、
開けてびっくり、中はお客さんで満員でした。
待っている間、駐車場には次々クルマが入ってくる。
地元の人気店なんですね。
お蕎麦屋さんですが、中華そばが人気だそうで
私も、冷たい中華そば大盛りを注文。
冷たいスープよりも、やはり普通の温かいスープでよかったかなと
一瞬後悔しましたが
旅の思い出だ
しかし全然大丈夫でした。
美味い!
特に麺は腰があって美味しいので、
大盛りでもすいすいお腹に入ってしまいました。
ごちそうさまです。
さて、あること2時間
山登りも繰り返し、いいかげん、足が疲れてきました。
駅前に、無料で利用できる足湯の施設を発見。
こりゃ、ありがたい、温かい、気持いい。
生き返った感じ、まだ歩けそうです。
バスを待つ間
ロータリーから眺める 葉山
と 月山
さあ、天童へ向かおう
山形 霞城公園 [街歩き]
バスが山形駅に到着したのが、午前5時半
モンテディオ山形 対 FC東京の試合のキックオフは午後6時半
それまで丸半日ある。
この時間を、有効に使おうと思いまして、
山形を歩きまわる計画を立てました。
もしかしたら、
これからサッカー観戦で、山形遠征へ行かれる方のご参考になるかもしれないので
その軌跡を記事にしておくことにします。
今回はその1
定刻通りに、山形駅西口の霞城セントラル前にバスが到着。
計画では、まず山形駅から列車に揺られ、
左沢まで行くことにしました。
しかし、左沢線の山形発始発は7時4分、
まだ90分ある。
お腹がすいた。
山形駅西口には、ありがたいことに
24時間営業のスーパー マックスバリューがありまして、
こちらで朝食用おむすびを購入。
地元スーパーの食料品売り場へ行くのも地方遠征の楽しみの一つ
東京で売っていない、地元にしかない食材や製品を見つけては面白がる
これも観光です。
始発列車の発車時刻まで
駅の近く、霞城公園をお散歩することにしました。
山形市民の憩いの場、霞城公園
朝の5時台ですが、すでに元気なお年寄りの溜まり場と化していました。
現在、霞城公園では城の復元が進められているそうで
本丸のお濠の周りとか、なかなかいい雰囲気です。
朝日を浴びる 本丸一文字門
中では、現在発掘調査中だそうです。
室町時代初期、斯波兼頼が築城したと伝えられる山形城
兼頼の子孫、最上氏が代々お殿様としてここに居城しました。
中でも、のちの山形発展の礎を築いた人物が、
この馬に乗っている最上義光くん
最上義光は関ヶ原の合戦時に武功をあげ、
そのお手柄として57万石
江戸時代の大大名に出世しました。
霞城の名前は、合戦のときに城郭が霧で隠れて見えなかったため
こう呼ばれるようになったとか。
こちらは二の丸東大手門
霞城公園は、桜の名所だそうです。
あと一週間はやければ!
ソメイヨシノ満開だったようです。
花びらは概ね散ってしまいましたが、
その代わりにしだれ桜が見頃になっていました。
きれい!!
ベンチに腰掛け、おむすびをほおばっていると、
朝の公園の常連さん?の、おかあさんから
どこから来たの?東京?怪我しないよう気をつけてね。
ありがとう
そんな、
ほのぼの山形の朝でした。
箕面 西国街道3 [街歩き]
勝尾寺は高野山真言宗のお寺。
1300年の歴史を持つ由緒あるお寺は、
西国街道に参拝のためのスタート地点があります。
勝尾寺の大鳥居
勝尾寺は、勝ち運をつけたい人が訪れるパワースポットだとかで、
この日私も、サッカー観戦が目的だったので
そのご利益に預かりたかったのですが、
本堂までは、この地から8キロ歩かなければならないそうで、
あきらめて、お寺の方角に向けて、拝むだけにしました。
西国街道のこの勝尾寺口から東側には、
より歴史を感じることができる家屋が並びます。
紀州街道を歩いたときにも感じましたが、関西は関東よりも古い建築物や景観を大事にしようという意識が強いような気がしますね。
関東、特に東京は変化のスピードが速い。
小野原地区では、タイムスリップ感を味わえます。
小野原村と呼ばれ、古くから集落ができ、栄えていたそうで
村の西のはずれにあるこの石灯籠は常夜灯で、
疫病や強盗など、村人に災いが訪れないよう、
祈りを込めて設置されたものです。
下の写真の石灯籠が村の東端
楠水龍王の祠は、
1336年、楠木正成が湊川へ出陣の途中
この地で冷たい水を味わったのだとか。
碑には「左京ふしみ道」とあります。
現代の、道路わきの案内板みたいなものですかね。
大阪都市モノレール、豊川駅が近づいてきました。
長い街道のほんの一部だけでしたが、それなりに楽しめました。
箕面 西国街道2 [街歩き]
171号を渡り、箕面市の西国街道を東へ東へ、
京を目指して歩いています。
しばらくして、右に広い畑が現れました。
正直、昔の「街道」という価値
意味を知らなければ、ただの郊外の畑のある風景。
ただ、下の写真の場所、
段差が気になります。
ときどき現れる土蔵
昔からこの地域は経済的に豊かだったんでしょうね。
桜井駅から東へ約3キロ
だんだん街道ぽくなってきました
浄土真宗のお寺
浄園寺の高い石垣
この付近の地名は、箕面市萱野になります。
萱野とは、この地にに領地をもっていた豪族萱野家
赤穂藩士、萱野重実の姓に因んでいるもの
と理解しましたが、
古くからこの地は萱野村と呼ばれていたそうで、
地名が先か、名前が先か、由来はわかりません。
萱野重実、通称 萱野三平は、48人目の赤穂浪士と伝わっています。
俳人として知られ、多方面で優れた人物だったようです。
「三平」と聞いて、正直、
古くは「どうもすいません」の林家三平と、
あまり売れていないバラエティタレント
しか思い浮かびませんでしたが、
今回、勉強させていただきました。
箕面市の観光施設になっています。
邸宅は明治時代に取り壊されましたが、
土塀の一部と長屋門が保存され、大阪府から史跡に指定されています。
吉良義央のパワハラに切れた 主君 浅野長炬が、
「てめえ、このやろ」と殿中刃傷事件を起こし、
切腹させられた経緯は、あまりにも有名。
三平が早かごで、赤穂に一報をもたらしたあと、
この建物の一室で自害したと伝わっています。
庭には、彼の辞世の句碑が残されていました。
さて、さらに東へと向かいましょう。
大分、都市化が進んできていますが、
まだまだ田舎という感じ
そして、ところどころに、
由緒ある建物や祠などが現れます。
箕面、西国街道1 [街歩き]
飛行機が伊丹に着陸するのは朝の9時過ぎ
万博での試合のキックオフが午後2時。
いつもは1時間前にはスタジアムに到着するようにしているので、
昼食時間を含め約4時間。
この中途半端に余った時間をどう使おうか、悩みまして、
どこか面白そうな場所はないかと、地図とにらめっこしたところ、
空港がある伊丹から、池田、箕面を東西に走っている
「西国街道」という道路が目に入ってきました。
Wikipediaによれば、
西国街道は「江戸時代の街道の一つで、 近世山陽道の別名である。また、西国寺、中国街道、中国路、山陽道などとも呼ばれる。京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。」
とありました。要するに、中国地方から京都へ上ったり、物を運ぶための近道として、1000年以上昔から人や馬が往来していた昔の幹線道路の一つですね。
以前、堺と岸和田を歩いた時に、紀州街道沿いのところどころに
古い町並みや屋敷が残っていて面白かったので、
今回も、街道で古の日本の面影を探すのも悪くない。
ということで
阪急箕面線 桜井駅から、大阪都市モノレール 豊川駅まで約7キロ 歩いちゃいました。
桜井駅の改札を出ると、昭和の空気が流れる商店街が現れる
といっても、50メートルほどで、広い通りにつき当ってしまいます。
この道路が西国街道。
ここには大正時代、箕面につながる箕面有馬電気軌道という路面電車が走っていたそうです。
早速、関東ではお目にかかれないタイプの古い建物が見られます。
阪急の踏切を渡ると、 道幅が狭まり、閑静な住宅街に変わります。
この辺りは、牧落という古くからある集落で、
応神天皇を祀る牧落八幡宮があります。
土地の氏神様ということだから、1000年以上歴史があるかと思ったら
寛文2年(1662年)創祀というから、比較的新しい神社なんですね。
西国街道と、南北の箕面街道がここでクロス
交差する場所には、札所がありました。
西国街道は、ところどころ併行して走る国道171号線に吸収されます。
この幹線道路は渋滞がひどいのか、西国街道の旧道は、
地元民の抜け道になっているようですね。
交通事故も多く発生しているのでしょう。
かわいい交通標識がそこらじゅうにあります。
クルマに轢かれそうになるので、
古い建物を見ながら、ぼんやりタイムスリップ感に浸っているヒマがありません。(つづく)
岸和田へ行く [街歩き]
関西空港から羽田へ向かう便の出発まで時間があいたので、
岸和田へ立ち寄ることにしました。
岸和田は、大阪の堺から泉州をさらに南へ
泉南と呼ばれる地域の中心都市。
岸和田は勇壮なだんじり祭りが有名ですが、
祭りの季節以外で、
縁もゆかりもない関東の人間が観光で訪れることは、
ほとんどないかもしれません。
プロ野球ファンには清原の故郷として知られますが、
京都や奈良と比べ、そもそもイメージが沸かない地域です。
南海電車を降り、とりあえず駅前の観光案内所へ。
案内所のオヤジさん、親切に教えてくださいました。
オヤジさんおすすめの2時間コース通りに市内を散策することにしました。
まず駅前の商店街を西へ。
ここには2012年のNHKの朝の連ドラ「カーネーション」の舞台、
コシノ3姉妹の生家があります。
2階が展示ルームになっていますが、有料です。
その手前にあるドラマにちなんで作られた「オハラ洋装店」
「カーネーション」に登場した洋服のレプリカを展示しています。
行ったときは人影も少なく、ブーム終了、という感じですかね。
東西に延びる駅前通りと直角に交差するアーケード街、
城見橋筋商店街
こちらは昭和の香りがプンプンしますね。
「闇市」という通称もあるそうで、なんともいえない
タイムスリップしたかのような、
街歩き好き向きかも
私もこういう空気、好きです。
その商店街を南へ歩き、
岸和田のシンボル、岸和田城へと向かいます。
岸和田城は別名千亀利城
由来は機を織るときにたて糸をまく
「ちきり」という器具に城の形がにていたからとのことですが、
ピンおきませんよね。ということで
織りの豆知識
http://www.lcv.ne.jp/~ichiki/HPbase/ori54.htm
本丸のある一画を空から見ると、ちきりのよう。
庭と天守部分が丸を二つ描いたように見えます。
岸和田城を築城したのがだれなのかは不明だそうです。
戦国時代、秀吉が紀州の勢力を押さえるための拠点とし、
その後、秀吉の叔父の小出秀政が城主の時に天守が築かれたとのこと。
家康が天下を取ると、1640年から岡部氏が13代にわたり城主となりました。
岸和田藩5万3千石、
紀州の見張り番ですね。
天守は1827(文政10)年、落雷により焼失。
現在の天守は1954(昭和29年)に復興されたもので、
観光施設ではなく、図書館としての再建だったそうです。
城門や櫓もその後復興されたもので
当然、鉄筋コンクリート
天守の高さは石垣部分を含め22メートル
江戸時代の天守はもっと高かったらしいです。
こじんまりした感じ
天守からは岸和田の町が一望できます。
写真は東南の方角
すぐ下に見えるのは、地元の財閥、寺田家の「五風荘」
現在は日本料理店、ということで立ち寄りませんでしたが、
回遊式の日本庭園がある大邸宅です。
本丸、天守の前庭は、
作庭家、重森三鈴が造った「八陣の庭」
こちらは近世に造られたもので、
岡部のお殿さまはこの景色を見ていません。
城郭のある丘を下り、
観光案内所のオヤジさん一押しのだんじり会館 へ向かいました。
だんじり会館は、
だんじりの実物展示や、紀州街道の町並み、体験コーナーなど一言でいえば、
ここへ来れば、だんじり祭りのすべてがわかる(大袈裟?)という、
まあ、どこの観光地にもあるような観光施設です。
だんじり祭りが始まったのが1703(元禄16)年
観光パンフレットによれば、
ときの藩主、岡部長泰が、岸和田城三ノ丸に京都伏見稲荷大社を勧請
今でいえば、大物ゲストを招いて大きなイベントを開催するようなものでしょうかね。
五穀豊穣を祈願する稲荷際を開催、
それがだんじり祭りの始まりとされているそうです。
だんじりに関連のある記念物の展示
イベントホールでは、記録映画が上映されていました。
地車(だんじり)を曳きながら、スピードを上げて
カーブを曲がる、「やりまわし」は迫力満点。
一度、生で見てみたいです。
だんじり会館を出て、
お次は岸和田の古い町並みを眺めに
紀州街道を北へとぶらぶら歩きました。
伝統的建造物保存地区にはなっていないようですね。
そういう事情もあってか、
新しい家も多く、やや不揃いな感じがしますが、
それでも漆喰の格子窓のある木造の建物が、
古の時代を感じさせてくれます。
こちらは魚問屋があったそうです。
円成寺
江戸時代には、
この紀州街道沿いに、豪商が軒を連ねていたことがうかがえます。
メインストリートで、人通りも多かったのでしょう。
だんじり祭りの「やりまわし」で有名なかぎ型の地点に来ました。
道路がかぎ型に曲がっているのは、
外部からの侵入者を防ぐため。
ここには堺口門という門が設けられていました。
昔、だんじりがカーブするときに
木造の家の軒や縁側を破壊する映像を見た記憶があります。
現在では、破壊防止のためでしょうね。
角が削られ、軒もコンクリで固められてしまっています。
ちょっとガッカリ感がありますが、
よく見ると、二階のベランダの下に
何かがこすった跡がありました。
普通はこんな場所に擦ったあとなどできませんやね。
漆喰の伝統的建物のほかにも
岸和田にはレトロな趣のある建物が残されています。
昭和8年に建設された、旧和泉銀行本店の建物。
紀州街道を右に折れ、
最後は、岸和田本通り商店街を東に、駅へもどります。
古い商店も多いそうですが、
電線が昭和っぽいです。
岸和田では古いものが目につきます。
大規模な開発が行われていないので、
江戸から昭和まで、それぞれの時代な空気がごちゃ混ぜになっている感じです。
面白かったです。
小田原城 [街歩き]
小田原へ行ってきました。
訪問したのは、3月29日。
東京では、桜が見ごろになろうかという時期でした。
小田原城公園の桜もそろそろ・・・
と期待しましたが、少し早かった。
開花していましたが、まだ一分咲き、二分咲きあたり。
残念でした。
さて、写真は小田原城。
にわか知識で、
この城について書きとめておきましょう。
小田原城の前身は15世紀、大森氏が築いた山城。
城が拡張されたのは北条氏の居城になってから。
小田原は、関東を支配するためには欠かせない
戦略的に重要な土地。
それゆえ、常に各国の戦国武将に狙われ、
城主の北条氏は、防衛のため、拡張を重ね堅固な城にしていきました。
1561年、上杉謙信、
1569年、武田信玄、
両雄の攻撃に耐えた難攻不落の城は、
次の豊臣秀吉の攻撃に備え、さらに築造され、
周囲9kmに及ぶ、巨大な総構となりました。
しかし、1590年
豊臣秀吉との3カ月に及ぶ篭城戦の末に敗れ、
北条氏は滅亡。。。
江戸時代、小田原は徳川家康の領土となり、
家康の腹心 大久保忠世が治めることとなります。
大久保家が小田原の城主になってから
1703年に、元禄大地震が発生し天守と櫓が倒壊。
1706年に再建されるが、その後も地震により被害に遭ったあと
明治時代初期、政府によって大半が取り壊されてしまいました。
現在は城の施設の復元が進められているそうです。
こちらが、小田原城の正面玄関。馬出門です。
その名の通り。
門を入ってすぐ、馬屋曲輪につながっていることから、
この名前になっています。
復元されたのは平成21年。
まだ新しいです。
馬屋曲輪にある歴史建造物っぽいこの建物は
二の丸の観光案内所です。
昭和初期に立てられた洋風の建築物で、
復元された城内の施設より、ある意味貴重かも。
銅門(あかがねもん)は、
馬屋曲輪から二の丸とをつなぐ門。
二の丸の正門になります。
こちらは平成9年の復元です。
二の丸に入ると、緑が増えてきます。
本丸へとつながる赤い橋とのコントラストがきれい。
本丸の正門、常磐木門。
櫓を兼ねた立派な門です。
こちらは昭和46年に修復され、
現在の姿になっているとのことでした。
いよいよ天守のある本丸です。
本丸は徳川将軍が地方に出張するときの
将軍用のホテル、本丸御殿がありました。
現在の小田原城の天守は、昭和35年、
江戸時代の資料をもとに復興された、鉄筋コンクリートのビルです。
総床面積1822㎡、総瓦枚数63440枚、
総工費8000万円・・・ん、 8000万円
50年前の物価水準では、1億円以下だったことが意外。
(小田原城パンフ「相州小田原城より)
現地に到着したのが、8時台だったので、
9時の開門と同時に、一番で入場。
ギギギギギィ・・・
お城の天守は、
日本中どこへ行っても、大体博物館になっていますね。
当時使用されていた武具などが展示されているものですが、
小田原城もご多聞にもれず、
甲冑、刀剣、絵図など、数百年前の貴重な資料が展示されています。
ちょっと面白かったのは、小田原提灯の由来です。
折り畳み式の画期的なアイデア商品で、
大雄山最乗寺のご神木の御利益ありのコンセプトが受け、
江戸時代の大ヒット商品になったとのことでした。
今なら発案者は大金持ち
提灯御殿と呼ばれる豪邸が建っていることでしょう。
あと、豊臣秀吉の小田原攻めの時の
北条氏に宛てた果たし状が展示されていまして、
これも興味深かったですね。
いちゃもんですよ。
天守の4階からの眺望。
秀吉が一夜城を築いたと云う石垣山や、
雄大な太平洋が一望です。
ああ天気がよければなぁ~
本丸の南にある報徳二宮神社にも寄ってみました。
ここに祀られているのは、江戸時代の偉人
ご存じ、二宮尊徳。
小学生には、二宮金次郎という名前の方がポピュラーです。
薪を担ぎながら勉学に精を出す姿は、
日本の教科書にものっている
勤勉な日本人の象徴ともいえる画ですが、
そもそもこの人、何をした人?
そう聴かれ、ちゃんと答えられる人は
おそらく私の周りにはいないでしょう。
wikipediaで勉強しましょう。
⇒ 二宮尊徳
城郭を出て、
宿場町 小田原ををぶらぶらと歩いてみました。
時代感のある美術品店と、外郎博物館
交通量が多い、殺風景な東海道
かつて、東海道の宿場町として栄えた旧市街
小田原宿なりわい交流館
海は市街地から歩いてすぐです。
高い堤防の上を走る西湘バイパスをくぐれば、
太平洋が広がっています。
訪れた時間が午前中だったということもあり、
開いている店はまばらでしたが、
やはり、地方都市にありがちな
商店街の寂れ感が漂っていました。
しかし、小田原駅前のにぎわいとは違う
昭和時代の雰囲気。
嫌いじゃないです。
そして、駅前のお土産屋ではなく、
この界隈の小さなお店でおみやげに買った
かまぼこが美味しかった。
池田 インスタントラーメン発明記念館 [街歩き]
北摂、池田へ行ってきました。
目的は観光です。
神戸にいる友人に、伊丹から羽田へ帰る前、
池田に寄ってはどうかと、アドバイスいただきまして、
へぇ~、そうなの、てな感じで、
全くそんな発想がなかったわけですが、
いわれるままに阪急宝塚線の池田駅で途中下車しました。
駅前に「インスタントラーメンのまち池田」の看板
そうです。
ここには、世界の食を変えた偉人、
日清食品創業者、安藤百福氏の業績を記念した
インスタントラーメン発明記念館があるんですね。
横浜にも、カップヌードルミュージアムがあります。
似たようなコンセプトのようですが、
こちらは入場無料です。
そんなこともあってか、
朝から家族連れがマイカーで詰めかけ
海外からの観光客も加わり
大盛況でした。
入場してまず目に飛び込んできたのは、
壁に展示されたカップ麺の数々。
まあ、いろんな種類があるもので、
グリーンチキンラーメン、キャロットチキンラーメン
どん兵衛にしても、
こんなインスタントラーメンあったんだぁ、と
博物館で珍しいカブトムシの標本を見ている
小学生のような気分になってしまいました。
行列が出来ていたので、何の列だろうかと聞いたら、
マイカップヌードルファクトリーの列でした。
1食300円で、
世界に一つしかないオリジナルのカップヌードルを作って持ち帰れるという
記念館の人気コーナーだそうです。
待っている時間がないので、ひとまず列から外れ、
館内を見学です。
二階はチキンラーメンファクトリー
チキンラーメンを小麦粉をこねるところから
製造体験できるコーナー。
こちらも親子連れでいっぱいでした。
みんな楽しそう。日清食品GJ
安藤百福氏は、2007年に他界。
これまで、特に意識することなく、
インスタントラーメンを食べて生きてきましたが、
安藤さんに大変お世話になっていたんですね。
もっとも、チキンラーメンが世に出たころは
これが日本人の発明とは知りませんでした。
チキンラーメンに始まり、
出前一丁、明星のチャルメラ、サンヨー食品のサッポロ一番と、
スープの味が脳に記憶されています。
カップヌードルが登場したのは1971年。
当時は、お湯をかけて食べるチキンラーメンが復活したような印象を受けましたが、
その後、インスタントラーメンは、
カップ麺が主流になって、世の中に定着してしまいました。
そういえば、カップヌードルといえば、
ヤングOH!OH! を思い出しませんか?
斎藤アナが会場を回りながら、ハッピー?ハッピー?
と若者にマイクを向けるシーンが懐かしい
話が横道にそれました。
記念のおみやげに、ひよこちゃんを買って帰りました。
200円。
一人1000円もあれば一日遊べる。大人気の理由がわかりました。
さて、池田は、江戸時代以前から商業都市として栄え、
酒造りの町として有名とのことで、
古い町並みもありそう、
期待しながら、昭和時代っぽいアーケード街をテクテクと北上しました。
池田では、呉春(ごしゅん)という、
江戸時代中期に活躍した絵師の名前をつけた
日本酒が有名です。
この木造の建物が、その呉春のメーカー。
梅の花が見事な建物は、
吉田酒造という造り酒屋です。
池田にはこういう伝統的建造物が、
点在しています。
残念なのは、位置的に大阪の都心に比較的近く、
ベッドタウンとして、宅地化が進みすぎてしまいましたね。
現在、レトロな町並みの整備途上ですが、
いけずな景観のマンションが立ち並んでしまったし、
関東の川越のような
レトロ感のある町並みへ戻すのは難しいかもしれませんね。
最後は、池田市の名前にもなっている
池田氏の居城、池田城です。
室町時代から江戸時代にかけ
この地に居城をかまえた池田氏は、
池田勝正のとき、織田信長に抵抗し敗北。
ただ、信長に認められ、家臣としてつかえ
むしろ城を拡大
ところが、勝正は池田家を乗っ取った形になる
荒木村重らによって追放されてしまう。
その後、村重は伊丹に居城を移したため、
池田城はいつしか廃城になってしまいました。
平成時代になり、発掘調査が進められ、
城のあった場所は、城址公園として
近年は、門や天守などが復元されている、とのことです。
数年後は梅の名所になるのかな?
いい感じの公園ですが、
正直まだまだ新築感がぬぐえないです。
でも、池田
サッカー観戦ついでにちょっと立ち寄る場所としては、
いいかもしれません。
あとはグルメですね。
阪急そばの300円の天ぷらそばも
関東の人間にとっては、
ある意味ご当地グルメではありますが。。。