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北白川宮銅像 [タイムスリップ]

明治時代の古写真の現場へ行ってみる
タイムスリップ定点比較シリーズ。

今回は大きな施設の前の銅像の写真。 

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[ 北白川宮銅像 ]

近衛聯隊の営前にあり、明治28年近衛師団長として台湾遠征の軍中、病の為に薨去し給う

北白川宮?
21世紀の日本人には馴染みのない名前ですよね。
私もよく知らない方なので、少し勉強しておきましょう。

 北白川宮能久親王

北白川宮能久親王は、1847年(弘化4年)、
伏見宮邦家親王の第九皇子としてご誕生。

1858年(安政5年)、10歳で輪王寺を相続、
上野寛永寺の門跡に。

江戸時代までは、皇族や貴族が住職を勤める特殊な寺院があり、
その寺院、またはそこの住職を”門跡”と呼びます。

北白川宮は、生まれてすぐお寺に預けられ、
皇族ながら、子供の頃はお寺で過ごされたんですね。

1867年(明治元年)、新政府と旧幕府勢力との間の内戦が勃発。

輪王寺宮(北白川宮)は、上野の山に立てこもった彰義隊に担ぎあげられ、
戦争に巻き込まれてしまいます。
彰義隊は敗北、輪王寺宮は逃亡して仙台藩に身を寄せますが、
仙台藩が新政府軍に降伏し、京都で蟄居を命じられます。

翌年、処分を解かれ、
1870年(明治3年)、明治天皇の命により還俗し伏見宮に復帰、
同年、兵学の勉強のため、プロシア(現在のドイツ)に留学されます。

留学中の1872年(明治5年)、北白川宮を相続。
現地では、貴族の未亡人と恋に落ち、
結婚しようとしますが、明治政府が難色を示したため、
帰国直前の1876年(明治9年)、自ら現地のマスコミに公表、
実力行使に出て大騒ぎとなります。

1877(明治10年)年に帰国し、婚約は岩倉具視らに説得され破棄。
以後は軍人として、陸軍少将、陸軍中将を経て、
近衛師団長となり、台湾遠征中の1895年(明治28年)10月にご崩御遊ばされた。。。

数奇でダイナミックな人生を歩まれた方で、
大河ドラマでも作れば、
面白い内容になると思うのですが、

隣国への遠慮からでしょうか?

学校で習う歴史からは、
抹殺されたに等しい状態になっていますね。

2002.jpg

そんな北白川宮能久親王の銅像の現在置かれている場所は、

東京都千代田区、北の丸公園内、
国立近代美術工芸館の庭です。

木陰で、ひっそりと馬にのった姿のまま。

銅像は、新海竹次郎によって製作されたもので、
陸軍砲兵工廠で鋳造され、昭和60年に一部修復されているそうです。


ちなみに国立近代美術工芸館も、
ゴシック風の赤レンガ造りの歴史的建造物。

明治43年(1910年)に完成、
当時は近衛師団司令部でした。

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さて、古写真の銅像の場所は平地ですが、

現在は土手の上です。

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古写真が撮影された場所は、ここではなさそうです。

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案内版によれば、

銅像は明治36年1月、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第一・第二連隊の正門前に建立されたが、
昭和38年に北の丸公園が整備された際、当時より60メートル西に移動した

とのこと。

古地図で、近衛連隊の正門があった場所を確認すると、
現在は北の丸公園の入り口、 

ここは、首都高速道路の代官町の料金所があり、
交通量も多い。

竹橋から西に緩い坂を上がり、
S字カーブを曲がったところ、

都心を走るドライバーなら、
誰もが通ったことあります。

001.jpg 008.jpg



では、写真を比較してみましょう。

2001.jpg

おそらく、この辺りで撮影していると思います。

004.jpg

ロシアとの戦争に勝利し、軍人が鼻高々で歩いていた日本と、

第二次大戦に敗れ、60年以上平和が続いている日本


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2013年、春の竹橋は、

外人さんが、桜を眺めながらママチャリでサイクリング。

この平和で美しい日本が続いてほしいです。

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