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堺プチ寺巡り [街歩き]

堺旧市街の続編です。 

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堺の町は、
紀州街道を挟んで、
それぞれ町名の末尾に東西が付きます。

前の記事の山口家住宅があるのが、錦之町東
そこから南へ、柳之町東、九間町東、神明町東、宿屋町東 
と続きます。

●●西、や●●南など、方角を町名の下につける習慣は
東京にはありませんね。
興味深いです。

で、その堺
番地が●●東となっているあたりには、
由緒あるお寺が並んでいます。
ちょっとしたお寺巡りができます。

というわけで、駆け足で観光しました。

まずは、浄得寺

聖武天皇の勅願で743年に建立されたと伝えられるお寺で、
かつては、海岸近くにあり、たいそう規模の大きなお寺だったようです。

七道という地名の由来も、
浄徳寺が七堂伽藍(金堂、塔、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂)を具備していたことから
その名前がついたという説があるそうです。

以上、案内版から引用。

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お次は、日蓮宗 月蔵寺

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明応4年(1495年)の開創。
1543年、堺の豪商 油屋常言の寄進を受けて、この地に建立。

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宗泉寺

山門が古く、いい感じのお寺ですが、
由来などはよくわかりません。 

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浄念寺

文明4年(1472年)の開創
コンクリのビル

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本覚山 経王寺

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十輪院

伽羅陀山(からだざん)十輪寺は、天文9年(1540年)の建立。
境内に南北朝時代の貴重な資料である塔波があるそうです。

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覚応寺

伊予の豪族、河野通有の子通元が、本願寺覚如上人に帰依し、
覚応と名乗り、正中2年(1325年)日向霧島山のふもとで開創。
その後、数代を経て堺に寺地を持ち、覚応寺となったとのこと。

ゆかりの人物は与謝野晶子、与謝野鉄幹。
境内には与謝野晶子の歌碑が建てられています。、

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さて、お次はこの古い門のあるお寺。

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本願寺堺別院

文明8年(1476年)に、蓮如上人が堺木屋町に建立した信證院に始まり、
享保13年(1728年)現在地に本堂を落成したが、70年後に火災で焼失。
現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたものだそうです。

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規模の大きな本堂で、
本堂内には、南蛮貿易の様子が描かれた襖絵があり、
貿易都市堺の繁栄が伺えますね。

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ゆかりの人物、蓮如上人、親鸞聖人
二人の銅像が本堂の前に向かい合わせで立っています。

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善長寺

勝軍山善長寺は、天文18年(1549年)の開山。

戦国武将、三好政長の息子政勝が
父の菩提寺として開山したお寺です。
細川氏、三好氏あたりは、
関東の人間にはあまりなじみがないっす。

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妙國寺

永禄5年(1562年)の建立された日蓮宗の本山です。

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織田信長は天下統一に、堺の商人の経済力を利用。
そんな関係もあり、寺の境内にある大ソテツも
一時安土城に移植されていたそうです。

徳川家康は、本能寺の変が起きた時、
ここに宿泊しており、急いで三河に逃れたとか、

歴史の舞台になった場所です。

 

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また、慶応4年(1868年)には、
開港していない堺港に無断で上陸してきたフランス兵と
警備にあたっていた土佐藩士とのいざこざから
土佐藩士側が発砲、フランス人が多数死傷するという事件が起きました。

この「堺事件」は当時、大きな国際問題となってしまい、
責任を追及された土佐藩士のうち11人が、
妙國寺境内で切腹しました。

寺の前には、彼らを弔う石柱が建てられています。

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彼らが葬られたのが、妙國寺の北側にある宝珠院

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切腹はフランス士官立会のもとに行われましたが、
11人が切腹した時点で、
フランス士官が耐えられなくなってしまったそうで、
もうやめてくれ!と中止になったとのことです。

烈士の墓は宝珠院の門の横にありました。

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まだまだ歴史的な神社仏閣がありますが、

七道駅から堺東駅まで、2時間弱ではこれが限界でした。

堺市役所の展望台へも行きたかったのですが、
次の機会にします。

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