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米國大使館 [タイムスリップ]

明治時代の写真の現場へ行ってみるシリーズ。

今回は大使館です。

出典元の「東京名勝図絵」には
9つの国の大使館の古い写真が掲載されていますが、

うち、オランダ公使館だけ、以前観たので
http://cliff-pinder.blog.so-net.ne.jp/2009-02-10

残り8ヶ国、
順番に観てみます。

さて、一カ国目。

下の洋館は、明治時代末期の米国大使館
まだ、現在のような超大国になる前。

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それが今は、
巨大なビルディングが建っています。

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場所は、当時と同じ
現在の地名は赤坂ですが、
当時は溜池榎坂町と呼んでいました。

スロープの感じから
正門の場所もほとんど変わっていないようです。

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それにしても、
当たり前ですが、大使館はどこも警戒が厳重ですね。
特に、アメリカ、ロシア、中国は厳しい。
大使館巡りは、非常にスリリングでした。

すでに、不審人物としてマークされているかもしれませんね。
あ~怖い、怖い


一方で、東京の都心、
大使館がある街は、今も開発の勢いが止まりませんね。

下はアメリカ大使館の近く、
建設予定現場の敷地でみかけた
赤坂のハクセキレイです。

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水天宮 [タイムスリップ]

タイムスリップ定点比較シリーズ。
明治45年に発行された「東京名勝図絵」
に載っている写真の現場を訪ね歩いています。

今回は日本橋蛎殻(かきがら)町の水天宮です。

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水天宮は、安産、子授けの神様として
東京都民に古くから親しまれているお宮さんです。

このブログに迷い込んだ方の中にも
岩田帯をしてお参りしたことがあるという
お母さんがいらっしゃるかもしれません。

私も長女が出来たときに参詣した記憶があります。

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水天宮周辺は、
隣の人形町がドラマ「新参者」の舞台になったこともあり、
最近はちょっとしたブームになっていますね。

昔から行列ができていた
タイ焼きの柳屋や親子丼の玉ひではもちろんのこと、
休日はどこのお店も観光客で大賑いのようです。

いろいろ、お薦めのお店や観光スポットがありますが、
水天宮では、敷地の中にある駄菓子屋さんが
懐かしい昭和の雰囲気を感じさせてくれます。

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冒頭の2枚の写真。

明治時代と現在の水天宮の写真ですが、
途中、大震災と戦災を経験したこともあり、
全くといっていいほど当時も面影がありませんね。

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現在、本殿と拝殿があるのは階段を上った2階。
一階は駐車場になっています。

したがって、写真が撮影された場所は、
駐車場の天井あたりでしょうか。


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古写真の解説文には次のようにあります。

 【水天宮】
 本社は筑後久留米に在り、文政元年三月久留米藩有馬邸内に奉し
 後明治五年今の地に移す。
 祭神は安徳天皇、建礼門院および二位尼にして天御中主神を相殿とす。
 毎月五日の祭日には賽者雑沓すること都下第一なり

”賽者雑沓すること都下第一なり”とあることから
明治末期、東京の大人気スポットだったことが窺えます。

しかし、明治5年に移転したということで、
江戸時代にこの場所になかったというのは意外でした。

それと、祭神が壇ノ浦の合戦で入水した悲劇の人物
安徳天皇、その母建礼門院、祖母で平清盛夫人 二位の尼
と知っている人も少ないのではないでしょうか。 

2011010802.jpg


この由来については、水天宮のホームページに解説があります。
http://www.suitengu.or.jp/

1185年、壇ノ浦の合戦に敗れた平家。
安徳天皇、建礼門院とともに入水を決意した局の伊勢は、
二位の尼に「生きて平家一門の霊を慰めてほしい」との命を受けとどめられる。
伊勢は、鷺野ヶ原という筑後川のほとりの地に逃れ、
そこに祠(ほこら)を建て、平家一門の霊を祀る日々を送っていたが、
地元の人たちから尼御前と慕われるようになり、
社名も尼御前神社と呼ばれるようになった。
子供の守護神、安産の神様から農業・漁業まで広く信仰を集め
これが水天宮の起源となった。

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時代が進み、江戸時代前期、
久留米藩第二代藩主有馬忠頼公が7000坪の敷地を神社に寄進。
社殿が建設され、水天宮の総本宮となり今に続いている。

江戸時代には、ご分霊が、江戸赤羽根(現在の港区三田一丁目)の
久留米藩主有馬家上屋敷の敷地内に祀られた。
その後、一旦青山の中屋敷へ移ったが、
1872年(明治5年)から現在の日本橋蛎殻町に祀られている。

端折ると、こんな感じでしょうか。

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江戸の時代、
水天宮は有馬家上屋敷の敷地内にありました。
塀の中でしたが、御利益があるということで、
賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったとのことです。

「情けありまの水天宮」とうたわれ、
当時の人気パワースポットだったのでしょうね。

では、

その水天宮があったという元の場所へ行ってみましょう。

現在の港区三田、中之橋交差点付近、
国際医療福祉大学 三田病院の敷地内。

現在、駐車場になっている辺りでしょうかね。

何か痕跡がないか捜してみましたがありませんでした。

20110108 suitenguu 05.jpg

しかし、実はこの場所、

以前の記事にも出た幕末の写真師 
F ベアトが写真撮影した場所なんですよね。

下の写真は、中之橋交差点付近から
南向きに撮影したものです。

遠くの木が茂っている場所には
神明宮、現在の天祖神社があります。

水天宮は、この写真の左
少し写っている塀の中にあったはずです。

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因みに、この場所の2011年1月はこんな景色。
最近、高層ビルが建ったばかりです。

しかしフレームは一緒、
”土地の記憶”は残っていますね。

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昔の神明宮の面影を残す場所は南側、
神明坂の途中から上る石段。

ここは江戸時代から
変わっていないかもしれません。

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しかし、本殿は近代的な建物に変わりました。
え? これが神社?

という感じ。

拝殿はその二階にあります。 

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江戸時代、水天宮があったという有馬家の上屋敷は
現在の三田一丁目。

神明坂の東側から三田通りまでの広大な敷地で、
現場を歩くとその規模に驚かされます。

敷地の北側が崖地なので、きっと池や滝があり
美しい庭園だったに違いありません。


有馬家の話になったところで・・・


最後にもう一つ、

この有馬のお殿様のお屋敷は、
化け猫騒動のあった場所として知られています。

当時の大スキャンダル?
ホラー小説の舞台と言った方がいいでしょうか?

その屋敷が建っていた場所には現在、
赤羽小学校があります。
ちょっとした縁があって、
最近、校内に入る機会がありました。

敷地が傾斜地で、校内に崖や階段、
さらに滑り台まである、ユニークな学校です。

かつては庭園の面影を残していましたが、
現在は機能優先で、大分様相も変わっています。

で、その小学校の校舎の横、
都立三田高校との境界の塀のそばに

有馬の化け猫騒動に因んだ塚があります。

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これがその猫塚。

いじめをすると復讐されるぞぉ、という
小学生にはちょっと怖いお話です。 

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東京帝国大学・第一高等学校 [タイムスリップ]

100年前に撮影された写真の現場に行ってみる
タイムスリップ定点比較シリーズ。

今回は本郷、ご存じ東京大学です。

東京大学が設置されたのは1877年。
写真は明治末期の赤門です。

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2010年秋の赤門

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東大の敷地には江戸時代、加賀藩前田家の上屋敷があり、
赤門は1827年、将軍家斉の娘が前田家に嫁入りしたときに建てられたもので、
180年以上現存する貴重な建築物です。

古写真は建物の二階か、電柱に上って撮影したものと思われますが、

撮影したと思われる場所には現在は書店があります。

赤門は戦災を免れましたが、前を走る本郷通りの
向かい側の家屋は第二次大戦時に焼失し、
ほとんどは戦後に建てられたものだそうです。

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文京区は学校、寺社が多く、

都心にあって樹木の多い場所です。

煉瓦塀とイチョウ並木のある通りは
秋の散歩道として最適。

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こちらが正門

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東大のシンボル・銀杏の並木を抜ければ

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安田講堂。

42年前、ここが学生紛争の舞台になりました。
当時、上空をヘリコプターが飛び、
講堂に向けて放水する様子が家の二階から見えました。

物々しい雰囲気で、
今は何のかんのいても平和です。
平和すぎるのかもしれません。

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東大キャンパス内を東西に言問通りが横断・・・・

というのは正確な表現ではないのかな?

現在、通りの北にある東大農学部との間を
連絡する歩道橋がかけられています。

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冒頭の古写真の時代は、
上の写真、左が東京帝国大学、右はその予科にあたる
第一高等学校がありました。
「旧制一高」と呼ばれる、今でいうエリート高校ですね。

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ここだと思いますが、
震災でダメージを受けたようで、
門扉に飾りのある歴史を感じさせる門ですが、
写真の面影はありませんねぇ。

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門から入ると、
正面に立派な木があります。

まさか、古写真の木ではないでしょうねぇ。

調べている時間がないので、今回はここまで。

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浅草part2 (凌雲閣~六区 そして東京スカイツリー ) [タイムスリップ]

タイムスリップ定点比較シリーズ。
100年前の写真が撮影された場所を訪ねています。

下の写真は浅草「凌雲閣」、
通称「十二階」と呼ばれた明治時代の高層ビルです。

凌雲閣は1890年(明治23年)に開業し、
明治から大正、関東大震災で倒壊するまで、
浅草のシンボル的存在でした。

池越しの凌雲閣の写真は
明治、大正の絵ハガキなどにもよく使われていますね。
 
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では、
この写真が撮影された現在の場所へ・・・・

おそらくこの辺りだと思います。
現在、池はありません。

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凌雲閣が建っていた場所は、パチンコ屋になっています。

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ここに凌雲閣が建っていたとう証拠として、
店の前に小さな記念碑が置かれています。


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凌雲閣は明治23年(1890年)開業、
高さは52mでした。

江戸の町が一望できる名所愛宕山の標高が25.7mだから、
当時は驚異的な高さに見えたでしょうね。

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凌雲閣のあった場所の東は今も人気の遊園地、花やしきです。
その南には、瓢箪池と呼あばれる大きな池がありました。

瓢箪池は浅草寺の裏手の田んぼを掘って作った人工の池で、
長い間江戸っ子に親しまれていました。
しかし、第二次大戦後は不法占拠者が集まるなど池の周辺の環境が悪化。

昭和25年、東京都から浅草寺に土地が返還されると、
空襲で焼失した本堂再建の資金を捻出するため、
池は埋め立てられ、翌年姿を消してしまいました。

今考えれば、もったいない話ですよね。

私は池の消滅後しか知りませんが、
このあたりはストリップ劇場などが並ぶ
風紀の悪い場所というイメージをもっていました。

池の北側は馬券売り場になっていますが、
現在も人通りが多い場所ではありません。

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池の西岸にあたる一帯には、
現在も映画館が並んでいます。

ポルノ映画のポスターが、明治時代とは違う、
戦後の退廃的な浅草を思い起こさせてくれます。

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通りは南へ歩くと「六区」の中心へとつながります。

さて下の写真の場所はどこでしょうか?
凄い人出ですね。
解説には、「六区活動写真館前の景なり」とあります。

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ということは、ここかな?

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「活動写真館」は、おそらく日本初の映画専門劇場
「電気館」のことだと思います。
(もし、間違っていたらご指摘ください)

上の写真は現在の六区のメインストリートを北向きに観た景色です。
右のグレーのビルが、「電気館」のあった場所に建つ電気館ビルです。

古写真にはたくさんののぼりが見えますが、
左の小屋ののぼりには
「清国革命」「不如婦」という文字が見えます。、

勇ましい題名から、「電気館」ではなく、
後からできた「帝国館」かもしれませんね。

もしそうならば、逆向きの撮影、
南を向くとこういう景色になります。

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かつてこの通りには人があふれ
まともに歩けない状態だったと聴きます。

今は自転車だらけですね。
昭和になり、さびしい六区になってしまいましたが、

当時の活気を唯一感じさせてくれるのが浅草演芸場です。

子供の頃、父親に連れられてよく落語を聴きに来ました。
場所がフランス座というストリップ劇場の下にあり、
出入りするとき見える壁のピンクのポスターが子供には刺激的でした。

フランス座は現在、「東洋館」という演芸場になっています。

ここにはテレビでほとんど見かけない
新旧芸人が大勢出演しています。
玉石混交で、笑えない若手芸人もいるかと思えば、
プッチャリンのような味のあるベテラン芸人も出演しています。

余談ですが、写真にある
ふじきイェイ!イェイ!の、「アースウィンド&ファイアー」のモノマネは
お年寄りにはちょっと無理があると思います。

私はいいけど。

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浅草演芸場のちょうど正面から、
東西に走るロック通りの街灯には、
浅草で活躍した芸人さんの肖像が飾られています。

「予約済」はご存じビートたけし用。

ちなみに、その裏には大宮デン助の写真が飾られています。
正面奥が浅草演芸場、左のグレーのビルが電気館ビルです。

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六区通りを、芸人の看板を見上げながら東へ歩くと、

橋達也の写真背後に
建設中の東京スカイツリーがニョキッ!と現れます。

橋さんといえば、かつてはストレートコンビで、
コントをしていましたね。
何となくラッキー7のポール牧師匠と
キャラが被っていたような記憶があります。
今も浅草でご活躍です。

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下左は東洋館の男子トイレで用を足しているときに
窓の外に見えたスカイツリーです。

これからは、この新しい景色が
駆け出しの芸人たちに
特別な感慨を与えることになるのかもしれませんね。

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北の凌雲閣が倒壊して87年、
東京スカイツリーは、浅草の新しい景色を作りつつあるようです。

最後は吾妻橋から観たスカイツリー。

100年前、橋から対岸のビール工場を撮影した写真師が
もし現代にタイムスリップしてきたら
この景色を観て、何を思うのでしょうか。

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浅草part1 (仲見世~浅草寺) [タイムスリップ]

明治45年に発行された「東京名勝図絵」
そこに掲載されている写真が撮られた場所へ行く
タイムスリップ定点比較シリーズ。

今回は浅草です。2010082021.jpg

江戸時代から栄えている繁華街、
浅草は奥が深く、私のような中途半端な東京人が知ったかするような場所ではありません。
写真掲載の都合上、それっぽい記事になりますがご容赦ください。

私が子供の頃、浅草といえば衰退している街という印象がありました。

しかし、最近は勢いを感じますね。
雷門の前にいる観光用の人力車の数が
以前より増えているのは、景気がいいとみるべきなのかな?

とにかく人が多いです。
仲見世通りの休日は、昔を懐かしむ中高年や
外国旅行者があふれています。

さて、その仲見世通りの明治時代はこんなでした。

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こちらは2010年8月

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浅草寺を中心とする浅草公園は、明治6年2月
寺の境内を一区から七区に区画されて設けられました。

一区は本堂、仲見世は二区に位置していました。

上記の古写真の解説には次のように記されています。

二区には仲見世あり即ち雷門址より仁王門に至るまで七十余間の間の称にして両側には煉瓦造りの商店街を並べて店を開く金龍山浅草寺餅、紅梅焼、七味唐辛、雷おこし等名物と称せられる・・・

雷門址とあるように、
雷門は火事で焼失してしまい、
明治時代には存在していませんでした。

土産物は、現在では人形焼きが有名です。

雷おこしは今でも名物です。
お餅も売っていますね、紅梅焼って知ってますか。
紅梅焼は甘い堅焼きのおせんべい(⇒ 紅梅焼 )ですが、
これが「紅梅焼」と言う名前とは知りませんでした。
当時は名物だったんですね。

仲見世の途中にある伝法院。

以前ブラタモリで紹介していましたが、
池を中心とした立派な回遊式庭園があります。
一般公開していませんが、公開したら間違いなく荒れると思うので正解。

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さて、仲見世の商店街を抜けると宝蔵門が現れます。

明治時代は「仁王門」と呼んでいたようです。。

かつて着物の日本人が何百万とくぐった門の周りを
今は中国語が飛びかっています。

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次は宝蔵門の東にある五重塔。

100年前の撮影場所に立とうとしたら、
宝蔵門との位置関係が微妙に変わっていて、
定点比較ができませんでした。

下左の写真は、1648年、徳川家光によって再建されてから
250年以上経っている明治時代の五重塔。
この塔は、関東大震災での倒壊をまぬがれたものの、
昭和20年の東京大空襲で消失してしまいました。

現在の五重塔は昭和48年に再建されたものです。
前の塔と同じ場所に建てられてはいないんですね。

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次は宝蔵門をくぐり、奥にある浅草寺の本堂。

こちらも五重塔同様、空襲で焼失、
昭和33年に再建されたものです。

アメリカ人らしき観光客も多く見かけますが、
嬉しそうに記念撮影している姿を観ていると
お前らが一回焼いてんだよぉ!
と耳打ちしたくなります。

いわゆる浅草の観音様、
当時は「観音堂」という呼び名がポピュラーだったようです。

さて、下の写真。
これは宝蔵門に登って撮影したんでしょうね。

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さすがに同じ場所に立つのは無理なので
地上からパチリ。2010082007.jpg

神社仏閣は、昔のままの姿の場所が多いので
タイムスリップを味わうにはうってつけ乃場所です。
浅草寺もそんな場所の一つ。

しかし、そんな浅草の景色も

日々変わっているようで・・・
                                         (つづく)
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上野を歩く② 両大師~寛永寺 [タイムスリップ]

明治時代の古写真の現場へ行って
定点比較するシリーズ。
前の記事に引き続き、上野を歩いています。


南から上野公園を歩き、北のはずれにある
国立科学博物館の前まで来ました。

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国立科学博物館は1877年創設。
恐竜の展示などが有名ですね。
写真の日本館の建物は1930年に完成したもの。

2007年にリニューアルオープンした日本館は、
歴史的価値のある洋館で、
中の展示物だけでなく、その建物を観ているだけでも楽しくなりますね。

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国立科学博物館の北側には、輪王寺両大師堂があります。
開山堂両大師という呼び名の方がポピュラーかな。

山手線や高崎線に乗り、上野駅に到着する直前に
長い跨線橋をくぐりますが、両大師のすぐ横にあることから、
両大師橋という名前がつけられています。

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1644年(正保元年)、寛永寺を開山した天海僧正の像を安置するため
ここに寺が建立されましたが、後に比叡山延暦寺の高僧
慈恵大師良源の像も安置され、2人になったことから、
両大師と呼ばれるようになったそうです。

さて、明治末期の両大師の門の写真。

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左右の瓦のせ塀がなくなってしまいましたね。

階段の段数も少なくなっています。

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お次は東隣の、東京国立博物館。

100年前は東京帝室博物館と呼んでいました。

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現在の本館。

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古写真の建物は1923年の関東大震災で大破し、
現在の本館は1938年に完成した2代目です。

東京国立博物館には、国宝、重要文化財など
美術品、発掘品など面白いものが多数収蔵されています。
入場料600円で、朝から晩まで一日飽きずに見ていられます。

1900年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念し、
敷地内に美術館を建築することとなりました。
1908年に竣工したこの美術館が「表慶館」。

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片山東熊という建築家が設計した
中央と左右にドーム屋根を持つ美しい建物です。

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ホント、美しいですね。

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ちなみに、現在の皇太子様ご成婚を記念し、
1999年に開館したのが、こちら平成館。

こちらの外観はスッキリした感じですね。

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さて、更に西へ向かいましょう。

東京国立博物館の構内にある、旧因州池田屋敷表門。
鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門で、
もとは丸の内ありましたが、東宮御所へ移されたのち、
1954年にここに移築されたのだそうです。

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こちらは、かつての京成電鉄の博物館動物園駅の駅舎です。
駅は1997年に営業を休止し、2004年に廃止になりました。

昔、私も利用したことがあります。
地下へ下りる階段など石造りの、
歴史を感じる駅だったんですがね。?
この佇まいのまま残してほしいです。

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さて、次は芸大です。

東京芸術大学の前身は、1879年に創設された「東京音楽学校」と、
同じく1887年の「東京美術学校」です。
現在はそれぞれが、音楽学部と美術学部になっています。

まずは東京音楽学校の正門。

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現在の正門

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お次は東京美術学校。

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現在の美術学部

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東側にある正木美術館の門。

美術学校の正門を移設したそうですが、
上の写真では、レンガ造りではなく木製ですよね。

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古写真の現場ですが、

このあたりは、昔と道路付きが全く変わっていまして、
明治45年ごろ、
美術学校、音楽学校の正門はもっと北側にあったようです。

この壁のあたりから、帝室博物館の敷地に続く道路があり、
美術学校と音楽学校の正門も、
その道路に面していたようです。

それぞれな正門に限っては、全く原型をとどめていないようです。

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さて、最後は芸大の裏手に位置する寛永寺の本堂です。

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この写真の場所は

ここでしょう。

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寛永寺は徳川三代将軍 家光が創立し、
開山は両大師でも登場した天海です。

将軍家の菩提寺として、隆盛を極めたお寺です。
奥には15人の徳川将軍のうちの6人の墓があります。

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寛永寺は、最盛期 30.5万坪の敷地があったといいますから、
上野公園のほとんが寛永寺の境内だったんでしょうね。

しかし1868年、上野の山に彰義隊が籠った
上野戦争で、主要な建物の多くが焼失。

以後、境内は公園化され
寺の規模も大幅に縮小されてしまいました。

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芝増上寺と同様、

徳川の菩提寺ということで、
明治政府からなさけ容赦ない扱いを受けたんでしょうね。

結果、歴史的な建造物の多くが失われたわけで、

今考えると、もったいないことをしたと思いますね。

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上野を歩く① 上野公園 [タイムスリップ]

明治四十五年に発行された「東京名勝図絵」(ともゑ商会発行)
に掲載されている写真をもとに、現在その場所がどうなっているか訪ねて歩く
タイムスリップ定点比較シリーズ。

今回は上野公園へ行ってきました。

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上野公園の開演は1876年ですから134年前ですか。
上野の山に彰義隊が立て篭もった戊辰戦争の8年後です。

敷地が1890年に御料地として宮内省の管轄になり、
1924年、当時の東京市に払い下げられた経緯から
正式には「上野恩賜公園」といいます。

上野公園といえば、
お花見シーズンには必ずニュースに登場する
東京で最も庶民的な公園の一つです。

100年前も、東京の名所だったので、
現在でも多くの写真が残っているそうです。

下の写真。解説は上野公園の入口となっています。
現在では、山手線の上野駅を出て東側から入園する人がほとんどですが、
正門は南側にあります。

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ということは、ここでしょうか?

このあたりは一時、雰囲気悪かったし、
訪ねたのは久しぶり。
今も、ホームレスの人が多いですね。

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階段を上がって
ご存じ、高村光雲作、西郷隆盛の銅像。

銅像を見た夫人が、似てない、
浴衣姿で散歩はしなかった、と言ったとか
愛犬ツンは雄犬ではなく、雌犬だとか

過去、何かと話題に事欠かなかった銅像です。

手前の柵も当時と同じですよね。 

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銅像の横には、彰義隊のお墓があります。

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一回、山を西側に下りましょう。

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不忍池です。

夏になると水面が蓮でしきつめられます。
この風景は今でも見られますね。

この写真を撮影した季節もそのころでしょうね。
夏にもう一度来てみるかな。

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不忍池から東照宮へと上がる参道の階段。

長年、東京に暮らし、上野公園へも何度も来ている私ですが、
この階段は知りませんでした。

公園の西側は人影がまばら。

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上野の東照宮へ来ました。

ぼたん園が有名です。

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現在修理中

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遠くからきれいに見えた建物は絵でした。

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さて、次は花見の名所として紹介されている
公園内の写真ですが、

どこで撮影されたものかまるでわかりませんね。

この写真、向こうに建物が見えますね。
清水観音堂ではなさそうだし、

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ならば、今の動物園か。

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しかし、動物園の入口へは緩い下り坂になっているから、
地形が違いますよね。

池田屋敷の黒門か。

ならばこの位置。

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違うだろうなあ。

わかりません。

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もう一枚。

こちらは、遠くにドームらしきものが見えます。

となれば、帝室博物館か表慶館でしょう。

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帝室博物館は、現在の東京国立博物館です。

ということは、このあたりかな?

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震災や戦争を経て、道路付きも変わってしまっているし、

わかりません。

公園内を、うろうろ歩きまわって疲れてしまいました。

ところで、

上野公園には、野口英世の銅像があります。

こちらへお越しの節は、どこにあるか探してみてください。

ヒントは科学


(つづく)

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桜田濠 [タイムスリップ]

明治時代の写真の現場へ行ってみるシリーズ。 

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今回は桜田濠です。

 碧潭藍の如し

明治時代の写真集には
東京の絶景ポイントとして紹介されていました。

この景色の対岸に見える高台、
古くは霞が関の西から赤坂辺りまでの間を
桜田台と呼んでいたそうです。

ここに江戸時代初期(17世紀)加藤清正が居を構えました。
千畳敷と呼ばれる大広間のある屋敷は
櫻田屋敷と称していたそうです。

のちに彦根藩主井伊家の上邸になり、
現在、その場所には記念碑が建てられ、
真下を首都高が走っています。

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明治時代は、この場所に陸軍の参謀本部がありました。
古写真の左の方に映っている「巍然」とした建物がそれです。
立派ですね。

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現在は憲法記念館があります。
その南側は国会前庭の洋式庭園になっているため、
後方の赤坂の高層ビルがやたら目立ちます。

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1860年(安政7年)3月24日、登城中の大老・井伊直弼が
水戸藩の浪士らに襲撃される事件が起きました。

有名な「桜田門外の変」ですね。

井伊直弼の屋敷は、先ほどの記念碑のある場所にありました。

桜田濠沿いに、現在の内堀通りを南東へ進み、
現在のこの辺りを籠に乗り行列し、

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桜田門の手前で事件が起きたわけです。

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現在は観光客とマラソンランナーが通り過ぎる
平和な景色です。


変化の激しい東京で、
皇居周辺だけは100年前の姿がそのまま残っていますね。

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高千穂学校 [タイムスリップ]

明治四十五年に発行された「東京名勝図絵」(ともゑ商会発行)に掲載されている
写真をもとに、現在その場所がどうなっているか訪ねて歩いています。

最近は学校めぐりになっています。
今回の写真は「高千穂学校」。

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現在、こういう景色になっています。

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高千穂学校は現在の高千穂大学の前身で、創建は明治36年(1903年)
高千穂大学は、正直地味なイメージですね。
少し古い人間は、1999年までの「高千穂商科大学」の呼称の方に馴染みがあります。

現在の高千穂大学の所在地は、杉並区大宮ですが、
この地に移転したのは1946年。
創建時は豊多摩郡大久保村にありました。

大久保”村”といっても、現在の地名は新宿区新宿七丁目、
21世紀の東京ではバリバリの都心です。


高千穂学校



明治時代、四谷からこの大久保辺りは、要人の邸宅が並ぶ高級住宅地だったそうです。
高千穂学校も、彼らの子女に対する小学校からの一貫教育を目的に設立された学校でした。
いわば、お坊ちゃまが通う名門校だったわけですね。

本校は幼稚舎小学、中学、高等商業の四部を設け、其創建は明治三十六年四月小学校開校に始り、同四十年三月中学校、同四十三年十一月高等商業学校舎の竣工を見たるも高等商業は他日開校の予定なりと云ふ。

当時の小中高一貫教育の草分けでしたが、
戦後、さまざまな事情から、忘れられた名門校になってしまいました。
現在は失地回復に務めている状態でしょうか。

卒業生にビッグな有名人がほしいですね。

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さて、冒頭の写真の場所ですが、

当初、手元に東京府の区部の地図しかなく、
府下の大久保村の道路つきがよくわからず、
場所を特定できませんでした。

とにかく、手がかりを探そうと現地へ行き、
地元のご年配の方に写真を見ていただきました。

古写真を見ながら首をひねっていらっしゃいましたが、

「写真の場所がどこかはわからないけど、
高千穂さんなら久左衛門坂を下って
右へ曲がって左側のあたりにあったよ。」

ご丁寧に教えてくださいました。
おじいちゃん、ありがとうございました。

写真右、カーブした下り坂がその久左衛門坂。

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グニャグニャ曲がって

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つき当って右折。

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東大久保児童遊園です。

このあたりかな?

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あっ、ありました。

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しかし、古写真と周りの様子があまりにも違うので、
どこがどうなっているのか、位置が全くわかりません。

そこで、書店でいろいろ地図を見てみました。

昭和初期の東京の地図が載っている
「戦前 昭和東京散歩(人文社)」という本に、
校舎の位置が書き込まれていました。

このときは、大久保村ではなく、淀橋区になっています。
写真が撮影された時期と、年代的に20年ほど後になりますが、
校舎の位置は変わっていないと推定しました。

2010010302s.jpg古地図・現代図で歩く 昭和東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 人文社
  • 発売日: 2003/12
  • メディア: 大型本

なお、この人文社の古地図シリーズは、タイムスリップマニアにはお奨め。いい本ですね。


さて、地図から場所を特定しましょう。

高千穂学校の敷地があった場所は、
南北に急斜面が(左の地図に緑で表示した線)続いています。

記念碑のある児童遊園はその斜面の下。
左の地図上の校舎の北側、青い境界線がカギ形に曲がっているあたりになります。


古写真を見ると、、
右側、正面、左側にも建物が確認できます。
そして、どうやら手前が上り坂になっているようです。

ということは、東側から土手を上がり、
西の方角を写したものではないでしょうか。(上の地図上の矢印)

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そう結論づけましたが、

現在、学校のあった敷地にはビッチりとマンションが建っています。
土手も住宅の隙間から垣間見える程度。

写真の現場へは立てそうもありません。

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南側の道から見えるこの斜面。
撮影場所はこの斜面の上でしょう。

マンションが建っているあたりで、子供たちが学んでいたのでしょう。

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北側から校舎のあった場所を見た現在の景色。

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こんどは西側の道路から見た景色。

だんだん、怪しいオヤジになってきました。

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しかし、変わってしまいましたね。

ほとんど痕跡がない。
というか、私有地につきおいそれと入って確認するわけにはいきません。


さて、もう一枚。


高千穂学校のものとして、土手の写真があります。

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これ、どこなんでしょうかねぇ?

校舎が写っていないので、手がかりが少ないのですが、
写真から唯一、右へ緩やかに上る坂道が確認できます。

この地形で思い当たるのは、先ほどの東大久保児童遊園の横から
右へカーブしながら斜面に沿って北へと上るゆるやかな坂道です。

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とすれば、このあたりから撮影した写真でしょうか?

2010010313.jpg

というわけで、
今回は、結構手間取りしました。 

それにしても、新宿区、文京区あたりは
街の景色がものすごいスピードで変化していますね。

このブログの写真も、
近い将来レトロ写真に変わってしまうのかもしれません。

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明治時代の大学 早稲田大学 [タイムスリップ]

明治時代の写真の現場へ行ってみよう、タイムスリップ・定点比較シリーズ。
今回は早稲田大学の門です。 

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ここのようです。

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早稲田大学については、
私が解説するまでもないでしょう。

母校ではありませんが、
早稲田大学出身者は、マスコミでも多く活躍しているし、
私がこれまでお会いした卒業生は数百人はいると思います。

それほどメジャーな大学。

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さて、写真の現場ですが、

早稲田大学にはいくつか門がありまして、
たとえば、上が南門。

大隈講堂の向かいにある、下の写真が現在の正門になります。

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はてな?

それらしき場所が見当たらないぞ。

ということで、
守衛さんに写真を見ていただきました。

うーーーん?と頭をひねりながら、
詳しい方に聴いてくださいました。

どうもありがとうございました。 
仕事を邪魔してごめんなさい。

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で、その結果、
早稲田大学の正門はかつては北側にあった、

ということが判明しました。

で、グランド坂通りへと移動し、
冒頭の写真になりました。

どうですかねぇ?

門も、建物も変わっていますが、
土地のDNAみたいなものを感じませんか?

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と、こんな感じで、

最近はブラタモリ状態なわけですが、
そのタモリさんは早稲田大学出身ですね。

NHKの「ブラタモリ」を観ている方はお分かりだと思いますが、
番組でよく土地の「高低差」が話題になります。

この早稲田周辺も坂の多い場所で、

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特に西早稲田の方を歩くと、土地がデコボコうねっていることに気がつきます。
たとえば、下の写真。

諏訪町の交差点と早稲田を結ぶ諏訪通りです。

早稲田方面へだらだら下るかと思ったらとそうではなくて、
下って一度上がってから、文学部のある馬場下町交差点へ坂を下ります。

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確かによく考えるとおもしろいかも。

ここが、ブラタモリの原点かもしれませんね?

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