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上野を歩く② 両大師~寛永寺 [タイムスリップ]

明治時代の古写真の現場へ行って
定点比較するシリーズ。
前の記事に引き続き、上野を歩いています。


南から上野公園を歩き、北のはずれにある
国立科学博物館の前まで来ました。

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国立科学博物館は1877年創設。
恐竜の展示などが有名ですね。
写真の日本館の建物は1930年に完成したもの。

2007年にリニューアルオープンした日本館は、
歴史的価値のある洋館で、
中の展示物だけでなく、その建物を観ているだけでも楽しくなりますね。

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国立科学博物館の北側には、輪王寺両大師堂があります。
開山堂両大師という呼び名の方がポピュラーかな。

山手線や高崎線に乗り、上野駅に到着する直前に
長い跨線橋をくぐりますが、両大師のすぐ横にあることから、
両大師橋という名前がつけられています。

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1644年(正保元年)、寛永寺を開山した天海僧正の像を安置するため
ここに寺が建立されましたが、後に比叡山延暦寺の高僧
慈恵大師良源の像も安置され、2人になったことから、
両大師と呼ばれるようになったそうです。

さて、明治末期の両大師の門の写真。

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左右の瓦のせ塀がなくなってしまいましたね。

階段の段数も少なくなっています。

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お次は東隣の、東京国立博物館。

100年前は東京帝室博物館と呼んでいました。

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現在の本館。

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古写真の建物は1923年の関東大震災で大破し、
現在の本館は1938年に完成した2代目です。

東京国立博物館には、国宝、重要文化財など
美術品、発掘品など面白いものが多数収蔵されています。
入場料600円で、朝から晩まで一日飽きずに見ていられます。

1900年、皇太子(後の大正天皇)のご成婚を記念し、
敷地内に美術館を建築することとなりました。
1908年に竣工したこの美術館が「表慶館」。

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片山東熊という建築家が設計した
中央と左右にドーム屋根を持つ美しい建物です。

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ホント、美しいですね。

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ちなみに、現在の皇太子様ご成婚を記念し、
1999年に開館したのが、こちら平成館。

こちらの外観はスッキリした感じですね。

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さて、更に西へ向かいましょう。

東京国立博物館の構内にある、旧因州池田屋敷表門。
鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門で、
もとは丸の内ありましたが、東宮御所へ移されたのち、
1954年にここに移築されたのだそうです。

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こちらは、かつての京成電鉄の博物館動物園駅の駅舎です。
駅は1997年に営業を休止し、2004年に廃止になりました。

昔、私も利用したことがあります。
地下へ下りる階段など石造りの、
歴史を感じる駅だったんですがね。?
この佇まいのまま残してほしいです。

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さて、次は芸大です。

東京芸術大学の前身は、1879年に創設された「東京音楽学校」と、
同じく1887年の「東京美術学校」です。
現在はそれぞれが、音楽学部と美術学部になっています。

まずは東京音楽学校の正門。

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現在の正門

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お次は東京美術学校。

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現在の美術学部

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東側にある正木美術館の門。

美術学校の正門を移設したそうですが、
上の写真では、レンガ造りではなく木製ですよね。

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古写真の現場ですが、

このあたりは、昔と道路付きが全く変わっていまして、
明治45年ごろ、
美術学校、音楽学校の正門はもっと北側にあったようです。

この壁のあたりから、帝室博物館の敷地に続く道路があり、
美術学校と音楽学校の正門も、
その道路に面していたようです。

それぞれな正門に限っては、全く原型をとどめていないようです。

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さて、最後は芸大の裏手に位置する寛永寺の本堂です。

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この写真の場所は

ここでしょう。

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寛永寺は徳川三代将軍 家光が創立し、
開山は両大師でも登場した天海です。

将軍家の菩提寺として、隆盛を極めたお寺です。
奥には15人の徳川将軍のうちの6人の墓があります。

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寛永寺は、最盛期 30.5万坪の敷地があったといいますから、
上野公園のほとんが寛永寺の境内だったんでしょうね。

しかし1868年、上野の山に彰義隊が籠った
上野戦争で、主要な建物の多くが焼失。

以後、境内は公園化され
寺の規模も大幅に縮小されてしまいました。

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芝増上寺と同様、

徳川の菩提寺ということで、
明治政府からなさけ容赦ない扱いを受けたんでしょうね。

結果、歴史的な建造物の多くが失われたわけで、

今考えると、もったいないことをしたと思いますね。

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