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島原 大名屋敷~島原城 [旅行]

島原駅で下車、
早速、城下町を散策しました。

まずは城の濠に沿って、
テクテクと大名屋敷ゾーンを目指します。

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島原城は、天守のある城の敷地の周りを
お濠が囲む造りになっています。

現在はお濠の3/4ほどは、水がなく、
北側の濠は菖蒲園になっていますが、
仮に水があったとしても、

敵に取り囲まれたら袋のねずみ
逃げ場がないですよね。
なんでこんな構造にしたのでしょうね?

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時鐘楼は、初代藩主松平忠房が、
人々に時刻を知らせ守らせるため
作らせたものだそうです。

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お城へ行く前に、
島原観光スポットの一つ

武家屋敷ゾーンへ行きました。

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ここは、中央に水路のあるメインストリートを挟み、
3件の武家屋敷が公開されています。

現存するのは、篠塚邸、島田邸、山本邸の三つ

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その一つ、島田邸。

 

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日本人にとっては、
知識がなければ
ただの古民家にしか見えません。

江戸時代の地方公務員住宅、
武家屋敷とはいえ、意外に質素です。

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武家屋敷のそばにある郷土資料館へ寄り、
島原の歴史、縁の人物について
資料館の方にお話をお聞きすることができました。

キリシタン迫害、島原の乱、火山災害など
常に悲劇の舞台になってきた島原で
たくましく生きぬいてきている人たちは
どこか芯が一本通っている感じがしました。

雲仙普賢岳による被害も未だに生々しく残っているし、

能天気でいられませんよね。

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お次は島原のシンボル、

島原城へ行ってみました。

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島原城は、江戸時代初期(1624年:寛永元年)
松倉重政によってされたお城です。

りっぱな石垣のある城ですが、石高が多くないこの土地に
分不相応な規模で作ってしまい、

これが後の大事件、島原の乱を引き起こす遠因となってしまいます。

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松倉重政、勝家、親子は
島原の暗黒時代の藩主として扱わされています。

幕府に実態より多い石高を報告、
今でいう粉飾決算。

赤字なのに多額の税金を支払うため
社員の給料を削り、厳しいノルマを過し
反対できないようパワハラで締めつける・・・

今風に例えると、こうなりますが、

実際は、そんな甘っちょろいものではなく、

農家への取り立ては無論のこと、
年貢を納められない庄屋の妻や娘を人質にとって
脅したと伝えられています。

さらに、熾烈を極めた
キリシタンへの迫害で有名。

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1637年に発生した島原の乱は、
キリスト教徒の反乱という単純なものではなかったんですね。

藩主の非道への不満は、
キリスト教徒だけのものではなかったし、
当時日本に拠点を設けようとしていた
ポルトガルとオランダの対立も絡み

複雑な事情があったようです。

この一連の不始末の責任を取らされ、
勝家は切腹ではなく、異例の斬首

そして、幕府はオランダ以外は出入差し止めにする
いわゆる鎖国政策を実施に移す。

この歴史的大事件が起きた舞台が島原なんですね。

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天守から眺める有明海は、波も静か。

そんな血なまぐさい歴史があった場所とは、
全く想像できません。 

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一方、天守から西を眺めると、眉山がデーーーン。
後ろは雲仙普賢岳。

1792年5月、
雲仙岳の火山活動の影響から発生した地震で、眉山の山腹が崩壊。
島原の町が土砂に飲み込まれ、大変な惨事になりました。

崩れた土砂は有明海に流れ込み、
これが大津波を起こし、対岸の熊本や天草に襲いかかった。

15000人以上が亡くなったという、
この歴史的大災害は、「島原大変 肥後迷惑」
という呼び名で現代に伝えられています。

平時、島原城みえる眉山は絶景。

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西望記念館

島原出身の彫刻家、北村西望の代表作60点が展示されています。
ご存じない方も、長崎の平和記念像の作者と聞けば、
イメージが沸くのではないでしょうか。

島原市内では、あちこちに彼の作品が置かれています。

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西の櫓は民具資料館

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そして島原城もキリシタン資料館になっています。
撮影禁止。

もっとも、撮影したくない展示物も多いです。

島原城は破風屋根がないので
シュッとした感じ。

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食事は、
城門のすぐ前にある姫松屋さんにお邪魔しました。

番号札をもらって並ぶほどの大繁盛

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目玉は島原名物、具雑煮です。

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島原の乱のとき、原城に籠城した勢力が、
兵糧として貯え、いろいろな材料を集めて雑煮を炊いたのが起源
といわれているそうですが、レシピが残っていないので定かではありません。

丸いお餅に、焼きアナゴ、うす焼きの卵、かまぼこ、レンコン、タケノコ・・・
土瓶蒸しを主食にしたような感じでしょうか。

ごちそうさまでした。

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最後は、大手門から南へ

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昔ながらの商店街

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私、地方都市では必ずこの手の商店街へ行きます。
シャッター商店街になっている場所が多いですが、

昭和の香りがして、癒されるんですよねぇ。

ところで、「イギリス」って何?

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長いアーケード街を進むと、

江東寺があります。

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島原城を築いた松倉重政の菩提寺です。

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島原大変後、この地に再建され

豊後の尼僧が手作りの大涅槃絵を奉納したと伝えられています。

この涅槃像は昭和32年に造られたものだそうです。

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涅槃像の横には、ひっそりと
松倉重政のお墓が置かれています。

島原に入封する前の、奈良五条では名君と呼ばれていたそうで
人間を一つの評価で決めつけてはいけませんが、

晩節を汚してしまったというのは事実でしょう。 

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さて、再び島鉄に乗り、

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島原外港へ

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フェリーに乗り

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熊本へ向かい、有明海を横断します。

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