SSブログ

東大寺 [旅行]

東大寺大仏殿です。 

2011052807.jpg

週末、奈良へ行きました。

夜行バスで京都駅まで行き、
京都から奈良まで近鉄に乗って移動しました。

奈良を訪れたのは中学校の修学旅行以来です。
この日は台風2号の影響で、あいにくの雨模様。
傘をさしての古都散歩になりました。

2011052871.jpg

近鉄奈良駅から緩い坂を東へ登ったところで
まず目に飛び込んできたのは県庁のすぐ横で朝食中の鹿でした。

街のどまん中に鹿がいるんですねぇ。
それにしても生意気。人間をシカトします。

2011052880s.jpg 2011052804.jpg

久しぶりの奈良訪問、
とりあえず東大寺を目指すことにしました。
やはりお目当ては奈良の大仏こと盧舎那仏像ですね。

2011052831.jpg

東大寺は奈良時代の733年、
幼くして亡くなった聖武天皇と光明皇后の皇子の菩提のため
若草山に創建された寺が起源と伝えられています。
2011052808.jpg

盧舎那仏のほうは、741年
聖武天皇が詔を出して造立を始めました。

開眼が752年、竣工は758年、
都合17年の歳月を費やす大事業でした。

2011052814.jpg

高さは14.7m。でも、この大仏さんはオリジナルではないんですよね。
鎌倉時代と戦国時代の2回、
大仏殿もろとも焼失した過去があります。

現在の大仏の身体は概ね鎌倉時代、
頭部は江戸時代に再興されたものだそうです。

奈良時代から残っているのは台座部分だそうです。

2011052810.jpg

この蓮弁、釈迦如来像を中心に蓮華蔵世界を刻んだものですが、
ここに描かれている仏様たちの緩さが妙に気になります。

2011052811s.jpg 2011052813s.jpg

盧舎那仏像の左右には

如意輪観音坐像 と 虚空蔵菩薩坐像

2011052815.jpg
 

2011052822.jpg

 

国を護ってくれる四天王

うち広目天 と 多聞天

2011052816.jpg

2011052821.jpg


残りの二人 持国天と増長天の像は未完成で、首だけ

いずれも、江戸時代に造られたものです。

2011052820.jpg 

柱のキズは大分県?

2011052818.jpg


大仏の背光 
後ろはこうなっています。 

2011052817.jpg

この瓦は、手塚治虫の「火の鳥」 鳳凰篇を思い出します。  

      2011052819.jpg 

それにしても、

なんでまた、巨大な仏様を造ることになったのでしょうか?

こういう疑問が沸いてきたので、
日本史のおさらいをしました。

あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく いま盛りなり

2011052806.jpg


1300年後の日本人にとって奈良時代は、

貴族が歌を詠んだり、仏教寺院が建てられた
天平文化が花開いた時代。

そんな華やかなイメージがありますが、
実際は、政情不安で、干ばつ、大地震、
天然痘の流行などの災禍続きで、
必ずしも我々が想像するようないい時代ではなかったようです。
2011052824.jpg
(鐘楼)

ちょっと、年表で振り返ってみましょうかね。

701年、大宝律令が制定される。

中央集権的な日本の新たな統治制度がスタートします。
平城京を建設。

710年 平城京に遷都、

「なんと(710)大きな平城京」
で、ここからが奈良時代。

律令制の施行、平城京の建設
これら一連の事業でリーダーシップを発揮したのが藤原不比等。
彼が遷都後そのまま最高権力者となり、
養女の宮子を文武天皇、娘の光明子(光明皇后)を聖武天皇のお后とするなど、
天皇家との関係強化、その後の藤原氏栄華の礎を作ります、

720年 藤原不比等が死去。

あとを皇室の血をひく長屋王が指導者となり、
権勢をふるいますが、不比等の子供の藤原四兄弟は面白くない。
彼らが成長するに従い、激しく対立することとなります。

2011052826.jpg

724年、聖武天皇が即位

「なにし(724)ているの?聖武天皇」
このとき聖武天皇23歳。光明皇后とは同い年でした。

729年 長屋王が反逆の疑いをかけられ(謀略といわれている)
藤原宇合らが率いる軍勢に自宅を包囲され、
妃の吉備内親王とともに非業の死をとげる。

これは背景に天皇の後継争いがあり、
藤原四兄弟側が仕組んだと言われています。

しかし、この長屋王の死以後、
不幸な出来事が次々に起きることとなります。

2011052828.jpg
(二月堂)

732年 大旱魃

734年 近畿で大地震が発生 多数の死者が出る。

735年~ 平城京で天然痘が流行。

737年 長屋王を死に追いやった藤原四兄弟も次々に天然痘を患って病死。

権力の中枢にいる人間の半分が死んでしまう非常事態となります。

740年 藤原広嗣がクーデターを起こす。

2011052827.jpg


そんなこんなで、

巷ではこれらは長屋王のたたりではないか
とささやかれるようになる。

光明皇后は、首謀者と疑われる藤原四兄弟の妹
生きた心地がしなかったのでしょう。

仏のご慈悲にすがりたい。
そう思ったとして不思議ではありません。

2011052830.jpg

気が弱かったと言われる聖武天皇も、奈良を離れ、
難波京、恭仁京、紫香楽京と
転々と都を変える引越しマニア状態になってしまいます。

聖武天皇、光明皇后 ともに
見えない恐怖におびえながら生きていたんでしょうね。

状況は放射能に怯える2011年の日本と
少し似たところがあるかもしれません。

で、これではいかん、国がまとまらない。
信じる仏の力で国を護ってもらおう。
国を挙げて、日本中にお寺を造り
奈良の総本山には巨大な仏像を造ろう!!

まあ、粗っぽいですが、
こういう流れで大仏が造られたということだと理解しました。

 
2011052801.jpg
(戒壇院へつながる坂道)

756年、聖武天皇は大仏の完成を見ることなく崩御。

光明皇后は、天皇の愛用品を廬舎那仏に奉献、
それらを収めた東大寺の宝庫が歴史の教科書でもおなじみの正倉院ですね。

現在は宮内庁の管轄で、土日は開放されていないのでご注意。

2011052802.jpg

教科書でならった「校倉造り」の柱の部分は
横の道から金網越しに見ることができます。

2011052803.jpg 


最後は、ガラリと雰囲気を変えて
久しぶりのご当地キティちゃん。

大仏様は掌だけというシュールさが気に入りました。

2011052892.jpg 2011052893.jpg


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:スポーツ

nice! 1

コメント 2

酔いどれ天使

WEBで修学旅行!ありがとうございます。
最近とっても「京都・いや、奈良にいきたい!」と思う今日この頃です。
それにしても「鹿男」のイメージが大きくて仕方ありません。テレビのドラマと小説の両方とも面白かった。児玉清さんの存在も大きくて・・・
奈良って言うと・・「きょうここのへににほひぬるかな」がでてくる落語と「鹿男あおによし」を思い出します。
修学旅行の奈良は・・着いたとたんで、いきなり夕飯がおいしかった記憶があります。
by 酔いどれ天使 (2011-06-05 11:44) 

Cliff

☆酔いどれ天使さん、こんばんは

「鹿男」はよくわからないです。すいませんm(__)m

私の場合、ほとんどNO PLANで行って
あとから、あそこも行っておけばよかったと
後悔するケースが多いのですが、

今回も大仏以外、
特に予備知識がないままだったので、
もう一度奈良へ行きたい、という気持ちが起きています。

特に帰宅しててから 手塚治虫の「火の鳥」(鳳凰篇)
を読み直したら、その思いが強くなりました。

なお、私の修学旅行での思い出というか、悲劇は
当時、全くといっていいほど
奈良の歴史に興味がなかったことです。

by Cliff (2011-06-05 21:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

1,000,000西大寺~平城宮跡 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。