明治時代の大学 学習院 [タイムスリップ]
明治時代の写真の現場へ行く、”タイムスリップ定点比較”シリーズ。
最近は学校の写真の場所を回っています。
今回は学習院。
明治時代は庶民には縁のない学校でしたが、
今は、当たり前のように学習院大学出身の人が周りにいます。
場所は目白
駅を出ると、すぐ門がありますが、
こちらは正門ではなく西門。
ちょうど、学園祭シーズンで、
訪れたこの日も多くの学生が出入りしていました。
華族の学校というイメージから守衛のおじさんが執事のように見えます。
明治末期、ここは区内ではなく北豊島郡高田村という地名でした。
明治45年(1912年)に発行された「東京名勝図絵」という写真集のその解説によると、
華族の師弟に普通の教育を施し華族たるの徳性を涵養する所にして
明治七年華族勉学所を起こしたるを濫觴す。
九年神田錦町に華族学校を設立し
十年両陛下の臨御あり学習院の名を賜へり
二十三年四谷区尾張町に転し後、又今の地に移る。
とあります。
「濫觴(らんしょう)」とは「起源」と同義語ですが、難しい言葉ですね。
学習院のウェブサイトによれば、「学習院」の名称は孝明天皇より勅額下賜された
1849年(嘉永2年)まで遡るということですから、160年以上の歴史のある学校ということになります。
目白の地に移転したのが明治41年(1908年)ということですから、
この地でもう100年以上になるわけです。
正門はこちら。
竣工した当時の形状を残しているということで、
登録有形文化財に指定されています。
う~ん、なるほど。タイムスリップできそう。
東京で、こういう場所は本当に少なくなってしまいました。
コメント 0